松下昇~〈 〉闘争資料

1984-12-17

人事院審理再開請求(第一次訴訟)

 被拘束情況への移行の感触は次のようなものである。

一二月一七日午前一〇時前に、東京高裁第一民事部第八二二号法廷前の掲示板には、審理予定を記入した紙片がはってあったが、昭和五八年行(コ)第三二号の事件名や判決言渡の記入はなかった。

(これまでの経過は、第〈十〉号二~七ぺージ参照)三・二六判決公判が直前の忌避によって解体されたように、今回もそうなのかも知れない、という可能性も考えられた。~一一・二七〜付の忌避に関する再審請求や~一二・一二~付の新たな忌避申立(三月以降の全テーマを対象化して忌避理由を深化させたもの。いずれも松下、中尾、鈴木、清水の連名)、さらに~一二・一四〜付、~一二・一七〜付の{共同訴訟参加}…および忌避申立(第二次訴訟への〜十・一六~付の参加申立等との関連で、清水、竹中の連名)は、論理的にみる限り審理の不可能性を立証しつくしていたから。

(6行略)


 しかし一二・一付の期日呼出状が松下にとどいたため、松下らはその後に作成した前述の忌避表現を郵送し、当日の法廷には、忌避却下の際に提出するための即時抗告(異議)申立表現(①とする。

すでに三・二六公判時に作成してあった紙片に~一二・一七~の日付を追加記入)、口頭弁論再開申立表現(②とする。国および人事院が、第二次訴訟に書証として提出した第一次訴訟一審判決の副本の上に記入したもので、第一~二次訴訟の併合性を立体的に構造化しつつブーメラン的に回帰させる。)を持って法廷へ入った。掲示板には何もかかれていなかったにもかかわらず、十時すぎの裁判官(小堀、吉野、時岡)の入廷後、廷吏が松下らの事件番号をよみ上げたので、松下は傍聴席から立ち上り、忌避によって審理は停止しているのではないか、と問いつつ控訴人席についた。そして判例によって簡易却下できる、という裁判長に対して、前記の申立表現① ~②を提出しようとして裁判官席に近づいた。この段階で裁判長は何か紙片(③とする。判決文と推定される。)を丸めて左手でもっていたが、顔は松下の方に向け、紙片③についての発語は何一つしていなかったことを何度でも強調しておく。①~②紙片が松下の身体性に支えられて移動中に、一人の女性が裁判官席の後にすばやく登場し、紙片③を左手で裁判長の左手から自主管理しつつ、右手で紙片④(あとで一一・二七再審請求届出主体作成の共同訴訟参加申立書と判明)を裁判官の机の上においた。同時に松下の方向から紙片①~②が③~④の上から舞い降りた。書記官、裁判官、かけつけた警備の職員は、二人の身体の分断的拘束をしようとするが、後で判明したところでは正式の命令によるものではなく、各人の前ないし超法規的措置である。何かが解体し、渦巻いている数分間、法廷

を占拠していたのは、羽交いじめされた松下が法廷の全参加者に提起している〈声〉だけであった。

松下にとっては、突然、出現した〈バリケード〉で、六九年以降、現在までの全テーマを圧縮して語り切れるかどうかの実験場となった。羽交いじめしている書記官(新島)は、松下の顔が、もう一人の女性や傍聴席の他事件の関係者十数人の方へ向かないよう、必死で力を加えるが、〈声〉は、そのような力を苦もなく突破して幻想的秩序への批判的解体の威力を発揮し続けた。全ての言葉は記憶にないが、数分後に法廷から外ヘ押し出されて行く時の最後の言葉は、”永続する〈神戸〉大学闘争勝利!”であったことを〈夢〉の最後のシーンのように記憶している。

(週刊新潮一月一〇~一七日号で、現場にいたという人事院の吉田審理官は、松下がこの言葉を、書類を「投げつける」時に発した、としているが、かれの混乱ぶりないし偽証の証言にしかならない。


 廊下では松下と、松下の数歩あとから押し出された女性のそれぞれをとりかこむ職員らのかたまりが楕円の焦点を形成し、裁判官は法廷奥の合議室へ逃亡していたが、松下は、退廷命令をきいた戦員がいないことを確認して手を放させ、先ほど提出した紙片、特に① により、審理は中断されているはずだと主張し、①~②の行方?審理状況を確認するために再び法廷内に入った。

廷吏(笠井)が数十枚の紙片群を未整理のまま手にして呆然と法廷中央に立っているので、松下は①~②との関連を把握するため、それを受けとって再び控訴人席について一枚ずつしらべはじめた。

廊下で松下が、退廷命令がなかったことを立証したためもあってか、十時半ごろもう一人の女性も再入廷し傍聴席にすわった。

手に紙片③はなく、存在自体が消滅したかのようであった。

直後に裁判官が再入廷し、「判決言渡は終了したから退廷するように」と二人に命じたが、松下から、判決言渡などなかったし、①~②の提出が先にあり、今、手許には ②の一部分しかもどっていないから、法廷のどこかにある他の郎分と併合的に審理せよ、と主張した。

本質的には①~②~③~④の運動や分断の総体の審理を要求したのであるが、裁判官は全くこれに答えず、退廷を要求するのみであった。

松下は①~②~……(n)の総体をここで審理させる契機として、手許にある②の一部分を飛翔させた。

(「救援」に掲載されている松下を含む仮装披告団の文章では、「表現としての威力をこめた提出行為」) この瞬間には特に怒りや抗議の意志をこめていたのでなかったことは記しておく。

むしろ、全く新たな表現過程論の問いを、{ }公判の全集約点から、未知の位相へ架橋するよろこびに満ちて〈投げた〉といってよい。

日常的にたえずくりかえされる表現の移動が〈罪〉とされる空聞性の開示とその転倒! 従って、松下にとびかかった警備員数名が廊下と反対側のドアから松下を押し出し、口々に「落ち着け!」と叫んだ時、「一ばん落ち着いているのは私だ」という松下の微笑と言葉で、かれらの硬い姿勢は次第に崩れた。

また、制裁決定に、氏名等の黙否に対応して添付されている写真の表情が、幼い子どもの、大人に判らない遊戯をした直後の表情に似ているのも理由のないことではない。


 地下の一号拘束室の横の二号室に、その数十分後に女性がつれてこられた。

かの女は松下の拘束時にも、拘束室へ通じるのとは反対の廊下側へ通じるドアから退廷させられたのみで(拘束命令がなかった証拠)年輩の職員から「(落ち着きをとりもどした裁判官ないし裁判所総体が、ついでに拘束することに気付く前に)もう帰っていいですよ。

」と助言されていたのであるが、松下の運命を確認するために残るといい、数十分後にやっと拘束されたのである。

もし、このまま帰っていたら、その後の全経過は大きく変化していたであろう。

この変化の意味を権力は裁きうるか? 松下は、一九七四年四月一日の岡山地裁における{卵}事件の上告審における国選弁護人である小野正典氏(五月三日の会通信第二四号三五〜三七ページ参照)の制裁々判への立ち会いを要求し、裁判所の連絡はとどいたが、時間的都合で出廷できないまま、午後四時一五分に制裁々判が八二二号法廷でおこなわれた。

午前中の法廷が十数人の〈外〉部の人間によって辛うじて一定の公開性をもち得ていたのに対し、制裁法廷は制服をきた〈内〉部の人間で一杯になっていたのが印象的である。

付近の廊下一帯も立入禁止にされた。

松下は、拘束室よりのドアから連行されて入廷する瞬間から、併合の制裁々判を併合して公開でおこなうよう、幼い時からの〈方言〉を応用して語りつつ証言台に歩みより、その言葉の内容が裁判官の威信を失墜させ、深い報復衡動を増幅させたであろうと推定している。

脅え切った裁判官は、その言葉をきくまいとして、制裁の相手が証言台に到着する前に、監置二〇日の決定を、事実の特定や、反論の機会を与えることなしによみ上げて逃亡した。

そのため松下も方向のみ変えて歩き続けたまま再び拘束室へもどったのである。

時の楔通信〈12〉号 p04-06