eili252の日記

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2007-04-20

<    >様

古代ローマの格言に「60歳になった人は橋から投げ落とせ」というのが、あるそうです。若返りによる活性化が維持条件である共同体の本音をあまりに端的に表現しているので、思わず笑いもこみあげてきます。高齢化問題が叫ばれる昨今ですが、60才が古今東西かわらず微妙転回点なのは同じのようです。こころなしか日々の時間感覚に付きまとう<焦り>や<不安>に陰の量が増してくる感じがあります。

国家大学マスコミ・個人等が自分に関して行った<批評>総体の捉え返しを表現運動への新たな<パン>に換えつつ、<資料の原像>をさらにn次の展開に繰り込んでいく過程で、松下さんは60才になったばかりの初夏、「橋から投げ落とされること」=「既存の共同幻想に収監されること」を拒否して、自らが提起~要請し続ける< >幻想の渦中に命の橋から加速的に飛翔して行きました。

もうすぐ11周目の命日が巡ってきます。

彼のパンフに触れる人は誰も皆平等に直接の要請を受け取っているのと同じです。

そう直感するが故にご遺族も、制度的恩恵からはじき出されている苦しい老いの生活に耐えながら、内外から染み出て来る既成出版の誘惑とも闘って来たのでした。

間口は誰にも対等に開かれている、しかし同時に、死後の身体性でもある既刊パンフ自体の要請する刊行の方向軸~その提起にこめられた強度が、著作権消滅後も永続する<著作権>であると私は言っているのです。

私たちが松下を「めざすべき山脈」のようにとらえているという<あなた>の言い分は、ご自分を上昇志向なき職人だととらえていることと同じ位ずれています。

松下の声は、けっして老いることのない自分(たち)の<69年>性の声なのです。個々の肉体は次々に終っても、~刊行委を名のろうとし、松下の声を自らの内心の声として聞こうとする人~聞かざるをえない人が一人でも出て来るかぎり、彼の示した方向軸は社会的~法的にも<著作権>の帰属する「人格なき社団」として生き続けます。

私やご遺族を含む関係性が、権利的な基準を設けて自由な松下との接触を疎外してしまうというあなたの逆批判も、自由が生者の側に専有~固定される危うさを視野からはじき出した詭弁に堕しています。

開かれているということは対応する自由の具体性が問われないということではありません。むしろ逆ではありませんか。表現論的な原則を欠けば松下思想性を無視した野放図な利用~資本制への解消があるだけです。その事態をも逆方向からの<共闘>として応用して行く責任は~刊行委的に問われるとして、原則的に拒否する自由は死者の側にも厳然と存在します。

松下をめざさないなかで<松下昇>に出会う未知=途」などと斜に構えず正面から向き合えば、私が代弁するまでもなくパンフの行間から聞こえてくるはずです。

本当は他者からの批判は不要なほど、既に出現している<あなた>の本そのものが根本的な発想を内側から批判しているのです。自分も一読者だと位置づける文言をもってしても、松下に再度出会うために、彼の文章が80%近くを占めるという<自著>に定価を付けて本屋で販売することも必要~それも自由だ~今後の刊行作業の生命線だ、といった理屈は今もってどうにも理解できません。

それは~闘争の深部から影響を受けなかった位置で、<大学>闘争情況についての資料出版自体を自己目的化する発想にかぎりなく近づいているように見えます。職人という自己規定の仕方もそれを物語ります。もちろんどんな動機で出て来る本でも社会の有り様に沿って何事かでありうる可能性を否定するわけではありません。しかし、一方で「目を見開いて」の飛び越しであると言われている以上、たとえ本からビラ一枚に姿を換えても、収録される表現の持つ力を当て込んだレベルから現在的かつ関係的応用に転倒しているかどうかが生命線でしょう。

菅谷氏や北川氏や萩原氏~の表現についても同レベルでの収録が発想上の必然あるとして、当事者や読者の疑問はこの間の比ではないことが予想されます。完全無視より反発がある方が良いとは思いますが。

ただ、それもこれも、松下が自分に関するn次の<批評>を<パン>に換えて自分と読者の飢餓に応えようとしたのとは全く別次元の問題です。私(たち)が彼に続いて可視化したいテーマ群とも。

 一度でも表現したこと、為した行為は取り消したり撤回したりすることのできない本質を持っており、引き受け深化するプロセスを対置するほかないということは<69>年性の表現運動の根幹に開示されています。その意味でも、私(たち)は初めから<あなた>の「刊行作業の息の根を止めよう」などとは露ほども思っていません。ご遺族から悲痛な問いがやって来なければ、直接手紙を出すことも無かったでしょう。

八木さんの提起は、「異議が出た場合は中断して討論する」という自主ゼミ的原則の共有を目指したのだと理解しています。それが一瞬で伝わらないのであれば、本当は松下と<あなた>は何処までも無縁なのです。

前便の私の裁判の予感は「決着方法」ではなく、こういう事例が一般的に行き着く事態も想定して、双方の恣意性から遠い<場>でテーマに<参加>していく共通項を確認しておいたのです。松下存命中に関わった複数の裁判を想起しながら…。

どんな些細な対立でもマジでやり合うならお互い退路を断ってやらねばなりません。

今回のレジュメに、<あなた>が自己正当化だけに終始されていたわけではなかったこと、松下夫人に関しては第1便の終わりの方に出てくる一行しか書くことができない心境に多分在ったであろうこと、誤りの自覚を繰り込みながら作業を続けようとされていること等が(あらためて沸き起こる異和感の狭間からではありますが)、私には初めて垣間見えました。最低限そのことを松下さんの命日に向かう位置から夫人に届けていこうと思っています。とても納得はされないでしょうし禍根はいつまでも残ります。

人が人と理解しあうのはとてつもなく難しいことです。

こちらから<手紙>を送り続けるのはしばらく差し控えます。批判されれば批判し返す無限連鎖が相互に問題を深化させているとは限らず、逆行さえしてしまう事例に世界はあふれています。(初めからそうだったのですが)遺族的位相にどう対処されるかは<あなた>の信義の問題です。既成事実となった本に固執するなら、知らぬ顔の半べえを決め込んで私(たち)への逆切れで済ましているのは男らしくありませんよ。同じ区に居所も在るのですからきちんと出会う条件は私より豊富なはずです。双方が望めば出会いの仲介や立ち会いの労はいといません。

第2巻目以降を構想される際、これまでの経過が偏りなく読者にも開示されていくことを望みます。

最後に、冒頭の格言に戻りますが、関連して思い浮かぶのは概念集・8の「老人医療への救急医療」という文章です。松下は一応65才に達した人を想定しつつ、「苦しまずに死ねる薬の入手権利」⇔「実行に先立つ<遺言>(特に他者の身体~生命の解放をもたらす内容)の実行」という一対の原則を挑発的に提起し、こういった原則への反応の有り様に個人及び社会の本源的若さの条件を見ています。不思議に老いの自然性に向き合う勇気を与えられます。では…。                

2007.4.18   

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