<5月>
桜が散った後の黄砂や冷気の揺り戻しにさらされながら、植物が再び力をこめて新緑を燃え立たせる風景の中へ松下は立ち去った。
5月6日、10年が巡る。
<私>には、松下に「微笑みの貴公子」ならぬ「微笑の人」のイメージがある。激しい攻防や葛藤のさ中でも頬のゆるやかな線がかすかに笑みをたたえているように見え、半眼空ろの夢中で微笑む仏像のようなまろやかな残像がある。ここに繋がる印象は体形や顔の雰囲気のみならず<私>自身の関係認識に関わってもおり、主体の数だけ別の様々な印象があり得よう。殊に憎悪や忌避感を持たざるをえなかった人にとっては噴飯ものだろうか?
しかし、<大学>闘争とも呼ばれる情況下、映像等に固定された街頭や構内での衝突風景には決して還元できない、むしろ本質的な差異こそを意識に明滅させながら、誰もが、自身思いがけない表情で生きていた(る)のであり、松下の闘争現場でのたたずまいに交差させている<私>のイメージは、<私>によって予感されながら未だ明確にとらえられていない、未来へ(から)広がって行く或る豊かさの表象なのだと思う。
笑いは、その個体の内面が外界の対象に関係付けられる時の無意識的表象のひとつである。良くも悪しくも優位性に連なる慈しみから蔑み、劣性を繕う自嘲から追従、また対等性における共感から驚嘆などなど、笑いの告げる意味は多彩だ。怒りのあまり笑っていることがある。
突出する情緒が顔の筋肉を中心に身体の部位を運動させるが、物理的な動きとしては近似的な泣く・怒るといった表象よりも、その内包している情緒の構造が複雑で、しかも日々圧倒的に頻度が高い。笑いの頻度と質によって<人>という種や類の生命活動の水準が示されるほどに…。
松下の微笑には、(今、ここで<演技>している~<演技>させられていることの自覚を解き放ち、名づけがたい<作品>の登場者~創造者として、新たな情況のシーンを構想し関係付けている予感の)<たのしさ>が表象されていたのかもしれない。
2006.4.29 eili252