松下は概念集・3のp27「ワープロによる刊行」で次のように書いている。
(1)新しい技術に触れる場合には意志的に不快な表情をしたいと思っていても、つい新しい玩具を与えられた子供のようにのめりこんでしまう。
とてもユーモラスな文章だ。mojimojiさんも「つい新しい玩具を与えられた子供のように」はしゃいでいるみたいだ。しかし、松下は冷水を掛けることも忘れない。でも何故「意志的に不快な表情」をしなければいけないのか。
一六年前のさらに数年前の型落ちワープロに比べれば、数万倍以上の処理能力速度などを持つパソコンを駆使しまたインターネットを日々空気のように使いこなす環境にすっかり適合している、mojimojiさんと野原は。だがそうしたパソコン=ネット依存の盲点を突こうと松下はした。もちろん今読めば幼稚に見える点はあるが、今でも必要な自省の基本は提示し得ているようにも思う。“気がかりな問題点”の残りの四項目を読もう。
(2)無意識のうちにコンピューター的論理に包括され、合理化~管理化されやすい条件を自分で準備してしまう。製造~廃棄段階の地下水汚染にも荷担している。
(3)言葉とくに書き言葉を持たない、ないし奪われている存在(少数民族、原住民、障害者などのためのワープロは製造されにくい。)との表現手段の落差を拡大している。
(4)自分の直接表現の特性を生かせなくなり、表現内容が装置に逆規定され、画一化や惰性化をもたらす。また予測しない事故やミスで一瞬に長時間の成果を失う危険があり、経済力に見合う機種の機能の差異への怒りも生じてくる。
(5)この他に気付いていないものがありうるが、それらを含む問題点をおぼろ気に感じつつも使用を開始してしまう契機(偶然ないし必然的条件、それをもたらす時代のレベル)を忘れ、使用習慣を既成事実化してしまう。
わたしたちがこのパソコン+ネットというものに、松下のテキストを載せようとするとき最低限確認しておかなければならないこととは何か?
eili252さんはそれを次のように取り出した。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/eili252/20060113
<普遍性に向かうどのような言葉も関係の現実的な場面においてしか甦らない>
松下昇の表現の一部がネット上に掲載される<現在>とは、~刊行委の<不>在のみならず、表現過程に関わった個々の緩慢な<自死>を写し出している<現在>であるのかもしれない。インターネットは人類史の臨界点を超えた制御不能な幻想性爆発~崩壊のプロセスであるのかもしれない。
やはり「松下の」テキストではなく、「私の」テキストでもあるという自信においてテキストはコピーされるべきなのでしょう。
「仮装のテーマというのは本来、存在の根拠を交換することは可能かという問いでもあり」「仮装を実現しうる関係の実現は奇跡に近い」のであるということは、応用の際につねに想起されるべきであろう。(概念集1・p18より)
mojimojiさんの今までの掲載は私としてもしようと思っていたものばかりです。ありがとう。
これからも、ちょっとづつ着実にUPしていけば良いですよね。それがどのような贈与であるのかを自分の言葉で追加する方が良いのかもしれないですね。
他の人の意見も聞いてみたい。