永里繁行様
とりあえず返信をおこないます。
正直に言いますと今回の本の発行に関して「著作権」の
発想は毛頭ありませんでした。松下さんの表現過程に「著作
権の発想は皆無か、非常に遠いと思われていたからです。
これまで村尾は三冊商業ルートで書物を刊行しており引用
に際して著者の了解を求めたことがありました。たとえば
上野千鶴子氏であれは著作を明記さえしてくれれば構わな
い、という返信でした。大体他の著者もそのような対応で
した。出版社への問い合わせについてもまず著者の了解を
取ってほしいとの対応でした。それが書物を刊行する際の作
法であることは承知していましたが、松下さんについては全
く念頭にありませんでした。あなたがたからの指摘や批判で
松下さんにも著作権なるものが絡んでいるのがわかったしだ
いです。
「生じうる法的《著作権》をめくる自主ゼミ性〜」云々の個
所との関連で言えば『批評集γ篇 7』(〜1993・9
〜)には村尾の「無言録」の一部が数力所掲載されており
そこには「刊行委の註-証言録だけでも百ページ以上あり
力作ではあるが、記述を〈一〉行ないし〈一〉ページに変換
しうるような支点、をどこにつくりだすかという課題を、量的
ないし質的に読み通せない、と率直に感想を述べる人々のた
めにも検討してほしい」と書かれています。その註記につい
ては村尾の中では半分は今後の課題として受けとめていこ
うと思っていますが、後の半分は釈然としえなさがいまも残
りつづけています。掲載の仕方についてもそうです。
そこでは「発行連絡先」も入っていますが、これまて読
者の誰からも「無言録」を読みたいとか、その註記に関する
問い合わせは一度もありません。また同じパンフには佐伯庸
介氏の「《無言録》3註記・・・・雑感」という文章も掲載されて
います。村尾にも佐伯氏にも掲載についての連絡は一切あり
ませんでした。更に、村尾にはパンフがその都度送られてき
ていますが、佐伯氏にはパンフも送られていませんから彼
は自分の文章が掲載されていることすら知りませんでした。
それはこの手紙を書くなかではじめて確認されたことなので
す。
村尾に対しても佐伯氏に対しても「連絡不可能性に引き
裂かれている〜」というようなことはパンフ送付の点からも
ありえないことであったと思われます。このようなことを書
くと松下さんだって〈無断〉転載じゃないか、などと鬼の
首を取ったかのように受け取られかねませんが、そうではあ
りません。あなたが「可能な限り表現主体ないしその関係者
との連絡を試みておられたのも事実です」と書かれていたか
ら首を傾けたくなることも松下さんといえどもあったと
いうことを示しておきたかったのです。
それだけのことで、松下さんの手落ちだなどと責めるつも
りもあげつらうつもりも毛頭ありません。だいいち我々に
は松下さんの表現過程における展開の困難さを想うだけても
そんなことはとても言えないし、パンフとして出現している
だけても感謝しています。松下さん刊行のパンフ群について
は前の八木さん宛の手紙にも書いたように、少なくとも村
尾は了解しています。しかしあなたがたが松下さんのパン
フ群を「ネット販売」していくにあたってはやはりあなた
がたは自身の手で自分たちのパンフを刊行するようにして
読者〜関係者に連絡を取り、パンフヘの掲載の了解と「ネッ
ト販売」することの確認を改めて求める必要があった、と村
尾は思っています。
疑問は、あなたがたが刊行委を仮装してどんな問題を展開
しようとしているのか、という根本的な点にもあります。単
に刊行を引き継ごうとする思いいだけでは、決定的ななにかが
欠損していると言わざるをえません。あなたがたが自分たち
の直面している問題群に取り組み展開していこうとすれば
どうしても松下さんのパンフ群の刊行作業にも交差せざるを
えないのだ、というようなところが感じられないのです。『存
在と言語』刊行を見据えて言うのですが「思い」だけならや
めたほうがいいと思います。パンフ群には生命が吹き込まれ
ないからです。問われているのは刊行ではなく、パンフ群を
含むかつての全文書、ビラ〜等がもう一度乱舞することので
きる場所の構築こそにあるだろうからです。
村尾にしても、たぶん佐伯氏にしても松下さんが仮装し
ている〜刊行委員会だからこそ、どのような掲載の仕方であ
ろうとも、了解しようとしているのであってあなたがたが
松下さんを引き継ぐように〜刊行委員会を仮装するのであれ
は、村尾としてはその仮装に対する疑問も含めて先の「証
言録」の掲載についてはどうしても納得できません。掲載の
削除を要請したくなります。あなたがたが『存在と言語』の
刊行の宙吊りを要請するように、村尾たちだって松下パン
フの村尾〜関連の全個所の削除についての話し合いまでパン
フ刊行の宙吊りを要請できるわけです。
村尾がこう問いかけるのはあなたがたの〜刊行委員会の
仮装や「ネット販売」の方法についてあなたがたがあまり
にも不問に付しているように感じられるからです。自分たち
は問いを免除されているように思っているのではないでしょ
うか。その分だけ、他や村尾たちの刊行への糾問が先鋭化し
ているように感じられます。村尾たちが深く問われているよ
うに、あなたがたも深く問われているのではないですか。お
互いに大きく「ゆれる」吊り橋をずーっと渡りつづけている
ことには変わりないはずです。
本当はそれらの問いにはほとんど関心がありません。あな
たがたは好きなようにされればいいというのが本音です。今
回の事態で村尾は何度も刊行について自問を繰り返していま
す。もう一度振り返ると、村尾には生涯を終えるまてに ど
うしても「1968〜年」的情況を現在の場所から問い返し
たい欲求が内心に渦巻いています。その作業を押し進めるに
あたって、どうしても松下さんの表現過程を抜きにはできな
いか故に、作業の視野に松下さんの発言やレジュメや文書群
を収めざるをえなくなっているのです。
松下さんは彼の場所から自らがやってきたことをパンフ群
のかたちでまとめようとされた。そのパンフ群には当然のこ
とながら、各段階の表現運動へのかかわりに応じて出現した
ビラや文章や論考が収められています。だが、それはいくら
松下さんが運動の《中心》を占拠していても、あくまでも彼
の場所からの視野であって、運動にかかわってきた者たちに
は各自の場所からの視野があり、さまざまな場所からの視野
が展開されなくては運動総体は見えてこないでしょう。村尾
は自分のやり残している思いに突き上げられるようにして
自分の場所が直面している問題にどう取り組みなから、運動
にかかわってきたのか、を明らかにすることを思い立って、
読書クラブのメンバーに呼びかけ『存在と言語』の刊行作業
に踏み入ったのです。
松下さんの表現〜発言集は人類史的な次元で非常に稀有で
貴重な公的資料ですし、このまま埋もれさせてはならないと
痛切に思っていますが、だからといって刊行を継続するだけ
では形骸化するだけです。松下さんの表現〜発言集が本当に
一人一人手に取って読まれるだけでなく、読まれる以上のと
ころへ連れ出されていく基盤をつくりだす必要があるけれど
も、それでも松下さんの表現〜発言集ばかりに視線を注くわ
けにはいきません。松下さんといえとも〈部分〉なのです。
大きくとも〈部分〉なのです。我々は全体に、総体に向かわ
なくてはならないでしょう。そのためにも松下さんの表現〜
発言集が不可欠であるということで『存在と言語』に収めて
いるにすぎないのです。それでも収めるにあたってはいい加
減にはしたくないので、四苦八苦しているのです。
この取り組みは生涯をかけるに値する作業だと身に泌みて
いるので我々にとっては刊行作業〜配本の宙吊りは絶対に
ありえないことなのです。どこからの宙吊り要請であろうと
も腰砕けにはならない覚悟を持っています。しかしながら
松下さんの文書群を掲載する以上、あなたがたが指摘するよ
うに「著作権」問題が起こってくることも不可避でしょう。
我々のやろうとしていることが「著作権」問題をはるかに超
えるかもしれないとしても、それを避けて通ることができな
いことも理解できます。「著作権」が誰にあるのか、はそちら
で論議下さるとして、村尾にも読書クラブにも「著作権」か
ないことを明らかにするために、そのことを第2巻ではっき
りと明記することも考えています。
刊行を宙吊りせずに、しかも「著作権」問題を解決するた
めにはそうする以外にないと考えます。他の方法があれば
提案して下さい。ただ第2巻以降は運動に村尾もかかわっ
てくるが故に「著作権」問題は発生しないと考えます。いず
れであれ、問題を展開していくのに「著作権」問題が障害に
ならないことを願うばかりです。その方向でなら討論の場
への参加も考えていきます。
第2巻では六甲空間で撒かれ村尾がその場で手にしたビ
ラ群が多く掲載される予定ですが、連絡不可能なビラの書き
手からもし問い合わせがあれば喜んで対応したいと思って
います。というより、そのような彼らへの40年ぶりの便り
としても刊行していきたいということです。そのことが共同
作業への道が開かれる契機になるなら、刊行自体が実り多き
作業になるでしょう。
八木さんからも返事が来ていますが、あなたがたの文章に
は松下さんの語法が強く感じられ、読書クラブの他のメンバ
ーから大変読みづらいという感想が出ています。松下さんの
言い回しからの脱却が必要ではないですか。そして、どこで
でも同じように語れる平易な言い方を心がける必要がないで
すか。松下さんがいくら影響力の大きな抜きん出た存在で
あっても、松下さんとつねに対峙する姿勢を保ちつづけなけ
れは、彼が見えなかった問題や場所を探り当てることはでき
ないでしょう。
もう一つ気づいたことは、松下はこう考えていたとか、松
下はこう言っていたとかのロ調が非常に多く、代理人の発想
のように感じられることです。村尾は誰の代理もせずに考え、
言葉を発していくように心がけています。たとえ間違ってし
まうことがあろうとも。その範囲内でしか通用しない独特の
言葉遣いはやはり閉ざされているように思えます。
村尾もあなたがたも老年期に入り、自分の生命曲線を見通
すことのできる域に達しつつありますが、精力を浪費せず、
本質的な試行のみを遠く見据えて、跛行していくほかないよ
うに感じ入っています。「清掃」という言葉との関連で言うな
らけっして清掃されないゴミを敷き散らしたいというのが、
今回の刊行の試みの一つのような気がしています。
2007年2月28日
村尾建吉
追記・次頁に読書クラブのメンバーからの感想も載せてお
きます。
早速、永里さんへの手紙を読ませていただきました。著作
権のことてすが、村尾さんが書かれているように「表現過程
に著作権の発想は皆無」という印象をもっています。松下さ
んが主張すればそれは成立したかもしれないけれど、たぶん
そんなことは松下さんはしないだろうし、著作権といった発
想が生まれる余地のない場所で「表現過程」は展開されたの
ではないかと予想しています。だから現在も著作権はどこ
にも誰にも存在しないのではないでしょうか。遺族にもそ
れは存在しないようにおもいます。私の予想ですが、松下さ
んはそのように考えていたような気がするのです。ビラ、私
信等がある運動の中に放り込まれたら、それらを著作権云々
という地平で切り取っても、なんら生産的ではないと思いま
す。村尾さんも書かれているように、この著作権の問題は
多分どうでもいい問題のような気がします。松下さんは自分
の表現が、著作権問題などに振り回されずに「タンポポの綿
毛」のようにいろいろな場所と時間に飛んでいくことを望ま
れていたのではないでしょうか。
それと討論の場への参加は歓迎します。八木さんがいう
ように村尾さんの本の刊行中止を前提ではなくて、そのこ
とを含めて、ぜひとも討論の場をもってほしいです。手紙だ
けでは、いっぱい分からないこともあるので実現していき
ましょう。
それと、八木さんの手紙を読んでいてびっくりしたことが
あったので、ついでにここに書いておきます。松下さんの言
葉「いま自分にとってもっともあいまいな、ふれたくないテ
ーマを闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ」を引用
しつつ「ところが村尾氏はそのように発想しない」とかか
れている部分でした。この松下さんのことばを、あたかも八
木さん自身の言葉のように使う無神経さにはあきれました。
多分、この松下さんの言葉は松下さんしか使えない言葉で
あったとおもいます。八木さんは、使ってはならない言葉を
使いながら村尾さんを批判した気になっているとかんじま
した。それとAmazonへの委託はされていませんのに
かってにそのように書かれているのはどうしているのでしょ
うか。取り急ぎ、思ったことを、間違いを恐れずに印象のみ
で書きました。
2月28日広内