こう切り返したからといって無断掲載で済まされる筈は
ないし、同様に相手の了解を得たから掲載については問題な
し、で片づく問題でもありません。やはり掲載しようとす
るビラや文章が追求している問題をどう共有していくか、が
問われつづけていることを考えるなら、掲載〜転載そのこと
が自己目的化していくことは頽廃にちがいありません。村尾
が一番気をつけなくてはならない課題だと受けとめています。
どうもあなたがたは自分たちこそが〜刊行委員会の正当な
後継者であり松下さんの遺志を受け継ぐものだと思い込ん
でいるように感じられますが、あなたがたのそのようなスタ
ンスこそ松下さんが闘ってきた腐敗の根源なのではないで
すか。あなたがたの手紙の中の口ぶりも松下さんに同化し
たような物言いであることに異和感が募ってきます。松下さ
んの発想の共有を目指したとしても、自分の頭で考え自分の
言葉で練り上げていく個人としての作業を怠るなら、松下神
話を強化する使徒の役割を果たすことになるだけではないか
と思います。
あなたがたは本当に松下さんの後継者なのですか。仮に
「遺品」の中にパンフレット群も含まれていたとして、あな
たがたは松下さんの「文書および口頭による指定」を受けた
者たちなのですか。もしそうであったとするならあなたが
たはそのことを少なくともパンフレット群の読者、松下さん
が〜刊行委員会を仮装して送付していた読者に連絡しました
か。そして自分たちが今後〜刊行委員会を名乗ることの了
解を得ましたか。読者であり〜関係者である村尾には一切
連絡も、なんの通知も知らされていません。もし知らされて
いたなら、今回の刊行のような事態も避けられていたかもし
れません。自分たちのことは棚に上げて、村尾に配布の宙吊
り要請を突きつけることは成立しないのではありませんか。
あなたがたが〜刊行委員会や《自主ゼミ実行委員会》を名
乗ることは北川透が言いふらしている「松下昇を神格化す
る弟子たち」という中傷に根拠を与えることにならないでし
ょうか。もうそんなものはどこにもないのだという吹きっ
咽しの断崖の感覚で零から出立する必要があるのではないで
すか。そうでなければ、あなたがたと進んで言葉を交わす気
には毛頭なれません。だいいちどこまで行っても平行線で
交差するところはないでしょう。
あなたがたはあなたがたでやればよいし、私たちは私たち
でやっていきますとは言いませんが、今回の刊行に際して
付け加えますと、どこか間違っているのではないかという感
覚はたえず持ちつづけています。間違っているかもしれない
し、別の方法があるかもしれないとしても、それが我々には
っきりとみえてくるまで試行錯誤を繰り返していくほかない
と思っています。資本主義的なあり方を超えていくためには
そこを自覚的にくぐり抜けていく必要があることは自明です。
松下さんが展開してきたような表現過程や、情況をつくりだ
す力量もなく、衰退する時代の中で沈黙を強いられていく一
方の私たちやあなたがたにできることは非常に狭く限定さ
れているでしょう。
今回の著作の刊行部数は売れないことを見越して刊行費
用の回収のみを念頭に最少限に抑え価格を高く設定しまし
たが、予想以上に売れ行きは大変悪く次の刊行費用も危ぶ
まれる先行きであります。刊行の仕方もよくなかったのかも
しれませんし、あなたがたのネット販売にも左右されている
のてしょうが、そもそも松下昇《全》表現集自体にも商品価
値がないのかもしれません。松下さの言葉が消費されるこ
とのないはるか地平を突き抜けていることを考えるなら、そ
れは当然のことなのですが、第2巻以降の刊行も見直さざる
をえなくなっています。当初から赤宇覚悟でしたが、これほ
どとは予測できず、松下さんの言葉が受け入れられる余地が
どんどん狭まっている土壌の悪化こそを何とかしなければな
らないという思いが何度も募ってきます。
読書グラフに突きつけられていることは松下さんのパン
フ群がどうしても読まれねばならなくなってくる、それらを
読まずには世界に向き合っていけないし、あらゆる幻想領域
に足を踏みだすことはできない、という関係性の構築であっ
て、そのための一里塚として『存在と言語』を刊行しているに
にすぎないのです。
松下さんのご家族には大変心苦しく思っております。
この手紙は公開を前提に書いています。あなたがたの手紙
や要請も公開していきますのであなたがたもこの手紙を公
開して下さってかまいません。いや公開して下さったほう
がよい。こちらは今後の手紙についても公開していきます。
最後に、この頃しきりに感じていることを書きます。
松下さんのことを考えるとき彼が展開した表現過程に激
しく巻き込まれて、姿を見せなくなった数多くの人たちのこ
とが浮かび上がってきます。松下さんを見つめているだけて
は松下さんは見えてこない、ということがつくづく実感さ
れます。
1/27(土)に緊急でクラブを開き集まった4名て話
し合ったことを伝えます。『存在と言語』1巻の刊行〜配布は
宙吊りしない、2巻以降の刊行は不確定にするというもので
す。
そこで出された、いくつかの印象的な感想を記しておきま
す。
《この手紙には、どこに「野原さん」がいるのかよく分から
ないような手紙てした。というのも「松下の思想」(こうい
うものがあるのなら)の枠組みで村尾さんの著作か批判され
ており読んでいて、ほとんど興味深い展開にはなっておら
ず楽しくない手紙でした。(…)この手紙の文体は乾いて
いて、冷たく書いた人の情熱とか意欲とかが伝わってこない
文章であったと感じています。「松下の思想」を「キリスト
の思想」と置き換えてもなんら問題のないような文章しか
そこにはないのではないかと思ってしまいました》
《ただ、野原さんの疑問点、の一番目の「過剰な〈いのち〉の強
力な羽ばたき、情況との交差というものが刊行内容だけて
なく、刊行過程自体にも内在しなくてはならない、だが、そ
れは存在するか」という問いかけは、私たちのあり方をつま
りは「ワープロ打ちに始終してきた自分」に降りかかってき
ており考えねばならぬ課題として受け止めております》
《今回のやりとりは、お互いに生活の安定のうえでなされて
いるだけてはないか、そのことを深く肝に銘じなくてはなら
ない》
2007年1月29日
村尾建吉
同文書p236〜p238最初の数行まで。