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村尾版松下表現集刊行の可否 2007年 RSSフィード
 

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4noharranoharra   2  Re:2007.01.04〜

続き p234-235

 あなたがたが〜刊行委員会や〈自主ゼミ実行委員会〉を名

乗っているということは、松下さんの表現過程や、やろうと

してきたことを自分たちか引き継いている、そうしなければ

ならないとと思っているからだと見受けられます。村尾はそ

んなことは不可能だと考えます。だいいちネットを通じたお

知らせ〜販売自体も、書店販売と同様に表現過程的にはあり

えないことでしょう。あなたがたも村尾も松下さんの表現過

程から切断された場所に一様に蹲っているのであり、村尾

そのことに自覚的であろうと思っています。残念なことかも

しれませんが、誰も松下さんの共闘者の位置をつくりだせな

かったことからすれば、それは当然なことなのです。

 村尾はそう考えていますから、自分の全く知らない松下さ

んの文章群とこれからも向き合っていくつもりてす。松下神

話に覆われた松下さんではなく、神話を解体する中で見えて

くる松下さんに新しく出会いたいというのが、村尾の切なる

願望です。したがって、著作権などという資本主義的な考え

村尾にも クラブにも当然ありません。著作権などという

発想は松下さんの中にもないでしょうが、あえていえば、そ

れは我々の誰にもなく、松下さんにすらなく、松下さんの創

出した情況にしかないのではないですか。

 たとえあなたがたのネット販売が表現過程から遠いとして

も、松下さんのパンフレット群が一般読者と出会う通路を設

けている点で、村尾は一つの試みとしてけっして否定はしま

せん。もう少し読みやすくするように、編集や加工を施した

りすることかあってもいい、と思っているくらいてす。一度

も共闘者であることができなかった我々にはそうする以外に

術はなく書店販売もそのIつだと考えています。

 ネット販売は書店販売とは異なる、とあなたがたは反論す

るかもしれません。書店販売は単に商品として売るだけのこ

とたが、ネット販売は購読者とのネットを通じたやりとりが

可能であり、購読者が特定できることによって集会等への呼

びかけも可能であるから、読者への「開かれた通路」になっ

ているということかもしれません。ネットヘの過剰な期待は

村尾には疑問です。いまは、本当にそうでしょうか、という

ほかありません。ネット販売はネット通信販売にすぎないよ

うにもみえます。あなたが書店販売に異議を唱えなから『存

在と言語』を直接村尾からてはなく、書店で購入したという

ことに疑問が起こってきます。

 村尾は松下さんの後継者でもないし、遺言執行人でもあり

ません。パンフレット群の今後も託されているわけでもなく

その管理人でもありません。表現の階級〜私有性と全力て闘

ってきた松下さんが誰かに託す筈はない、というのが村尾

判断です。正統性という発想も松下さんには無縁でしょう。

死亡通知を「風の使りに任せ」、葬儀は一切せず「遺品は私

の文書およびロ頭による指定のある場合を除いて譲渡、複写、

刊行はせず、基本的に廃棄してよい」と書かれた遺書が村尾

にとって唯一、最大の、最後に遺された言葉であり、生き残

っている我々に対する励ましと受けとめています。

 「遺品」の中には村尾にも送られてきたパンフレット群も含

まれているのですか。それらは除外されているのですか。も

し除外されているのであれば、基本的にそれらを活用するこ

とは、その活用の仕方に対する問いかけをその人が引きずっ

ていく限り、構わないのではないですか。もちろん、どのよ

うに引きずっているかはたえず公開しなくてはならないし、

多くの批判にも晒されつづけなくてはならないでしょう。そ

してその批判に言葉で答えるかどうかは別にしても、受けと

めていかなくてはならないでしょう。

 さて『存在と言語』に松下昇《全》表現集(1969年以

前)を収録している問題について、語っていきます。村尾

吉名の刊行物であるのに松下さんの文章群が8割近く収めら

れているのはどういうことなのか、という疑問に対しては、

松下さんの手で書かれた文章を村尾か自分の著作と主張する

ことはできないのははっきりしています。そんなことは誰に

も明らかなことで、村尾は単に松下昇《全》表現集(196

9年以前)として松下さんの文章群を自分の著作の中に収録

したにすぎないのです。本当は全部松下昇《全》表現集とし

て刊行してもよかったかもしれませんが、そうする理由ない

し意味を問いつづけることなしにはありえないと考えたので

それも同時に収録したのです。

 〜関係者の了解を得ているかどうかは別にして、村尾は固

有性を超えて、〜刊行委員会として刊行していくだけの場所

をつくりだしえていないので、いまは村尾としてどの問題も

受けとめていくほかないのです。

 村尾の著作の中に松下さんの文章群をそのまま、かつ村尾

による編集を施して収めた時点で、もはや松下さんの文章群

は松下さんの手で書かれたものでありながら、村尾によって

加工された松下さんの文章群にほかならないと判断して、あ

のようなかたちにしたのです。そこには、村尾以外の無数の

たとえばあなたの松下昇《全》表現集が存在してもよいし、

そのありかたの一つとして提示したつもりなのです。しかし、

あたかも村尾が後継者として松下昇《全》表現集を取り込ん

でしまったかのように受けとめられるのであれば、それは不

本意であるし、無用な曲解は避けねばなりません。そのよう

に受けとめる側にも問題はなくはありませんが、今後は村尾

建吉編著にすればいいという、そんな問題ではないことも確

かです。いずれであれ、松下昇《全》表現集という表記の仕

方は今後再考せさるをえません。

 刊行については〜関係者の誰の了解を得てもいませんし、

話し合いもしていません。誰であろうとも、自分の判断と覚

悟で行えばいいと考えています。たとえば、69年の神戸大

学で入手したビラ群を掲載するのに許可がいるのですか。匿

名のビラや連絡不可能な場合、誰に連絡を取ればいいのです

か。パンフレット群にしても、〜関係者との話し合いを踏ま

えずに掲載されている文書等が多く見受けられます。村尾

文書にしても一度も連絡を受けたことがありません。そうす

べきであったと言おうとしているのではなく、情況の渦中を

乱舞していた無数のどの紙片も文書群もすべて匿名性に貫か

れていたと考えられるし、その匿名性を突き破るのは情況の

中に自分の場所を占めていく度合いで不可避に問われてくる

ことであったのてす。

 松下さん作成の、あるいは松下さんが関わったパンフ群の

刊行に際して、松下さんにとって誰の了解も必要でなかった

のは、彼のつくりだした情況性にどの掲載文書も貫通されて

おり、表現過程として取り込まれていたからです。とはいえ

連絡不可能性の中での掲載〜転載であるという自覚は不可欠

であったでしょうし、連絡不可能性の領域に踏み込む覚悟も

必要であったでしょう。彼は極限情況でそれを引き受けてき

たと思います。ネット販売のパンフ群には書店販売と同様に、

もはや表現過程や情況は刻印されていません。したがって、

もしあなたがたが村尾の刊行に対して〜関係者の了解や話し

合いを持ち出すなら、ネット販売のパンフ群に対してもあな

たかたはそうすべきだったでしょう。

返信2007/11/25 09:54:39
  • 4Re:2007.01.04〜 noharranoharra 2007/11/25 09:54:39
    続き p234-235  あなたがたが〜刊行委員会や〈自主ゼミ実行委員会〉を名 乗っているということは、松下さんの表現過程や、やろうと してきたことを自分たちか引き継いている、そうしなければ ...
    • 5Re:Re:2007.01.04〜 noharranoharra 2007/12/02 09:46:56
      村尾第一信(最後の部分)  こう切り返したからといって無断掲載で済まされる筈は ないし、同様に相手の了解を得たから掲載については問題な し、で片づく問題でもありません。やはり掲載 ...
      • 602.19永里−>村尾 02.24野原−>村尾 noharranoharra 2007/12/27 10:31:37
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 次に、永里氏から村尾氏宛の2月16日付け書簡。p238上の段からp240上の段まで。 これ ...
        • 72007.2.28 村尾から noharranoharra 2008/01/27 14:28:46
          2007.2.28 村尾から 永里繁行様  とりあえず返信をおこないます。  正直に言いますと今回の本の発行に関して「著作権」の 発想は毛頭ありませんでした。松下さんの ...
        • 8このエントリーは削除されました 2008/01/27 15:17:13
          このエントリーは削除されました