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「松下昇〈全〉表現集」の刊行 RSSフィード
 

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3noharranoharra   eili252氏の 拠点<論>

拠点<論>

年の瀬の気配が漂い始めた11月の終り、西宮のT氏から「松下昇クロニクル」が届いた。A4版200ページに及ぶ。

自らの関心に沿って、また一定の網羅性~概観性を意図して、松下昇生誕年から出立年にいたる60年間の軌跡を、関連表現の所在や社会事象と共に要約列記している。ぼう大な資料群の手触りや作業の息遣いが伝わってくる。彼が6年ほど前から独自に手がけているものの改訂版と言えるが、まだ決定版ではない。欠落や重複部分の修正~不可欠な記事の補充~読みやすい形式や質量への抽出~等、関係性への共同作業の提案もこめられている。

T夫妻と松下との出会いは極めて情況的であった。或る事件で無残に失われた幼い命の側から真相に向き合わざるをえない現れが国家権力に利用されてしまうという矛盾に苦しみ、冤罪事件として拡大する支援の動きから孤立して組織的な攻撃にもさらされた夫妻の位置を、法的被告人の位置と対等の深さで松下は包括しようとした。

「正しいことを語っている~権力と闘っている」と自認する組織や個人の陥りやすい欠損~反<存在>性に対する松下ほどの感受性を私は他に知らない。それは、<大学>闘争の過酷な影響から愛息(未宇さん)が障害を持って生まれ、幼いまま他界したことにも関連して、単に思想的射程という以上の<原則>性を帯びて松下の闘いの基調を形成していた。

常に動いている現実過程の諸関係において、最も弱い位置に追いやられる(死者を含む)存在への想像力と自らの存在責任を、各構成員が自己告発する深さで共有し、止揚プロセスを一瞬毎に繰り込みえない運動はもはや本質的には成立に価しないと言うべきだろう。松下の<原則>は他の様々なテーマにも一貫している。

前世紀末の被告人<無罪>の終結を彼が知ることはない。しかし、権力位相での決着を超えて全ての事件性の本質は彼の<原則>の方向軸に生き続ける。

松下昇気付刊行委員会が不可視化した後の<10>年を、自分にとって<失われた10年>と呼ぶことはたやすい。しかし、己が非力につまづいているのだとしても、そう言い切ることで破棄される個々の時間などほんとうは存在しない。既に去った人にとっても、未だ悶々と生きている私にとっても情況の渦中で内向せざるを得ない表現過程がある。

 当初浮上した遺稿集~追悼集の宙吊りについても関係者の力量がしからしめたマイナスとのみ発想してはならないのではないか?松下の表現過程自体がパンフ化や出版に関わる旧来の全発想を批判しており、その批判の本質を踏まえた展開主体~関係性が<永久>に未成立~不可能である事態に、< >闘争の真の恐ろしさと、その向こうに広がる新しい何かも予感されて存在するのである。

 遺族的位相の人たちとの<著作権>テーマを含む自主ゼミ性を潜りながら、既刊パンフの複写や<販売>を細々と継続している過程で様々な出会いも別れもあった。その一つ一つに十分に対応できなかった禍根が胸を突く。しかし、山浦氏が「松下昇追悼資料集(抄)」を私たちに交差させ、野原氏が自問を重ねながらネット上での表現公開を持続している等の未来に繋がる動きも多く存在する。自らの拠点でまだ可視化することができずにくすぶっている作業群~との関連において何度でもとらえなおしたい。松下の表現過程が照らし出している個々の超生涯的テーマがそれぞれ遠くまで深く孤立しているとしても、各々の足下を粘り強く潜り続けることなしに未踏の共同表現の地平は見えてこない。T氏の作業は象徴的な現れであり、叱咤激励でもあろう。

 「松下昇クロニクル」を受け取った数日後、仕事の合間にネットを何気なく検索していて驚いたことがある。71年以来、鋭い批評的通信を発行し続けて来たM氏の主宰するHPで、松下の1969年以前の<全>表現を本に<収録>して複数の書店で販売しているという記事に出会ったのだ。

 これはどういうことだろう。HP上の掲載表現について自らの著作権を明記しているのに、松下昇の<著作権>にどう対応したのか「呼びかけ文」を読んでも不明である。

 「革命的な本」「40年の隔絶に踏み込む契機」「25時に向き合っていく狂熱を予感」「活字の背後の膨大な世界に触れることが不可欠であるような書物」といった言葉が見られるけれども、松下が刊行してきたパンフ群との関連や位置付け、今回のような<収録>~<販売>方法が生前からの松下の委託によるのか、連続性においてか、あるいは何らかの断絶断念の結果なのか、今、このような形で出現させるに到る関係的必然性が明確に語られているようには見えない。気の利いた既成出版の広告文のようにしか響いて来ないのだ。購入すればそれが見えるのだろうか?

 本箱に納まるような表現の有様を忌避せざるをえない不可避性を帯びて連続した表現過程における可視的部分が、主体の出立後は<基本的に廃棄してよい>と言いうるほどの公開性に差し出されているとして、M氏はどのような回路を通って、松下の<遺言>の真意と現在の<無言>を聞き取ったのであろう。その<全>回路の公開性こそが、今は直接応答不可能な他者性の表現を本に収録する以前に、関係性の声として<収録>されなければならない<文学>の外における、自発性・責任性に基づく拠点的対応ではなかったのか?

2006.12.18 eili252

追記・野原氏へのお願い

私の日記は設定上プライベートモードになっているため、任意の人が自由に見ることができないようです。できれば、今回の日記の複写もしくは主宰者の関連コメントを何処かすぐに読める場所に貼り付けてもらえないでしょうか。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/eili252/20061218

返信2006/12/18 23:53:14
  • 3eili252氏の 拠点<論> noharranoharra 2006/12/18 23:53:14
    拠点 年の瀬の気配が漂い始めた11月の終り、西宮のT氏から「松下昇クロニクル」が届いた。A4版200ページに及ぶ。 自らの関心に沿って、また一定の網羅性~概観性を意図して、松下昇生 ...