今日やっと、
グループ名を :「仮装被告団~刊行委員会」とし、
メインのブログ(日記)を:「松下昇~〈 〉闘争資料」とすることにした。
メインにはまず何を載せようか。概念集1序 で一応良いのだが。
ああそうだ、やはり「情況への発言」でいこう。再録だが。
その後 次のようなものを載せていく。
・・概念集序文系列 とりあえず5まで
・・概念集1
・・起訴事実 検察側の文章から
ところでこのグループというのはブログ以外に、掲示板や「あしか」というものが使える。後者の方が参加者が対等に表現できるので面白いかなと思っている。「あしか」というのは下記で、お仕事を管理するためのメモ置き場のようなもの。昨日はこれで遊んでみた。
グループ「仮装被告団~刊行委員会」への招待
ごぶさたしています。
今回下記のようなグループを作りました。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/
グループ名は :「仮装被告団~刊行委員会」です。
メインのブログ(日記)を:「松下昇~〈 〉闘争資料」とすることにししました。
いまのところ参加者は野原燐一人です。
参加希望者はhatenaというブログサービスに登録すれば、無料で直ぐになれます。http://www.hatena.ne.jp/ で右上の「はてなをはじめる」を押すと
ユーザー登録できます。
登録しなくとも読むことはできるはずです。
わたしたちは、松下の「この作業ほど現在~未来的なものは、まだ、どこにも出現していないのだ」という自負を受け継ごうとするものです。
しかしそれは
「“自らの生存~表現を支える機構~過程に対する異議申立はいかに可能か?”という問い、問い方の構造に絶えず問い続けられる」ことと同時でなければならず、困難です。
示唆と共闘をお願いします。
野原燐
なおこのメールはとりあえず4人の方にCC(カーボンコピー)(アドレス公開)で送付します。
で同報メールの発送に失敗、というか成功したのに失敗したような気がすると思って、メールをもう一度送ってしまった。
12/24 なにかのイヴに
野原がこの間書いたメールからいくつかの断片を引用する。
グループ(名称未定)は下記ですが
http://from1969.g.hatena.ne.jp/
いまのところ3つの部分があります。
α、日記
ひとつ:http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/ (仮称)仮装被告団~刊行委員会 - 松下昇~〈 〉闘争資料
β、掲示板
ふたつ:
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/1(仮称)仮装被告団~刊行委員会 - グループ開始
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/2(仮称)仮装被告団~刊行委員会 - グループの名称は?
γ、仕事管理メモ「あしか」
http://from1969.g.hatena.ne.jp/task
みっつ=テキスト化、掲載、パンフ作成
以上のうち、http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/
に、沖縄の渚の画像を使っています。(hatenaでは日記の外見が300種類ほど用意されていてこれもそのうちのひとつ。)
ちょっと気まぐれで使ってみたものです(またもとに戻すつもりで)。
もちろんこのままでもいいかもしれない。
αについて更新が遅れています。
βについて、1,2とも投稿。1/9に。
γも少し書いた。
旧世代の左翼は古い常識が通じなくなった世の中を嘆くことしかできない。
21世紀的な常識と闘い~のスタイルが求められているのに、どこにもないようにも見える。
「1.公開。
2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。
3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。」
例えば上のような松下の原則はそのような常識を形成する上で最大のヒントになる。
短く言えば、公開。対等。自己=責任。
12/24に「ごぶさたしています。今回下記のようなグループを作りました。」と
ある〈開始〉を告げたのですが、
それがまずわたしにとって如何なる開始なのか
それを他者にどう伝えるのかが空白のままの開始だった、といえます。
その空白を持続し何かへ転位させるために必要な〈祈り〉を
どう招き寄せたらよいか、考えています。(野原)
昨日は、TM氏の「松下昇とキルケゴール」という文章を読もうとしていた。
この文章は「私が松下昇の存在を知ったのは、大学のバリケードが撤去されてから数年を経た頃のことだった。」で始まる。
で、私(野原燐)の場合はどうだったかというと次のようだった。
私が松下昇の存在を知ったのは、高校生とき学校の図書室で朝日ジャーナルを読んでだっただろうと思う。忘れていたが当時私は「大学に入ること」はすなわち「体制的価値観にそった上昇行為」であり、わたしはそのような生き方をすべき理由はないとかたくなに思っていた。現にわたしの友人は大学へ行かず高卒で就職した。(有名な受験校であった私の高校では異例のこと。)とはいってもわたしはおとなしいデモ一つにも、行けないような弱虫だったので、そんな選択はとうてい無理だった。それに丁度うちの高校で運動が盛り上がった時期(の直前)父親が病死した。長男だったわたしは以後も家族に貢献することはなかったが、結果的に逮捕されることもなく22歳で大学卒業以後面白くもない職場で就職を数十年継続したのは、そのことが影響したといえる。自分のことだからわからないがまあそう考えられるね。そのこととは、最低限逸脱しない生き方をすることだろうか。最低限であればよくそれ以上のことは全然考えなかった。上昇志向も下降志向もない。だいたい“就職を数十年継続する”ってどういう言い方だ、おまえは自分の人生をどう考えている、と皆に言われるだろう。だが、わたしにとっては、自分なりの二元論を維持することが最も大事だったのだ。
それだったら妻と子供なんか持たなければ良いではないか、それとも妻と子供はおまえにとって真実ではないのかと問われるだろう。確かにわたしが大きな影響を受けたはずの吉本隆明の思想には、共同幻想(国家とこの場合職場)を否定し対幻想(この場合妻と子供)を肯定するという思想がある。しかしながら吉本対幻想論は、現実に自分の営んでいる家族に即して理解してはならず、何らかの形で〈死〉にびたびたに浸された形態で理解すべきものなのだ、野原の理解では。(特攻隊員とその許嫁みたいな感じ。)(これはうまく書けないがいずれ書かなければいけないな。)妻と子供は私にとって真実であるが、わたしにとって第一の真実はそこにはない。
私にとっての真実は〈正確であろうとすること〉につきる。ちょっと「性即理」に感動する東洋の文人に近いかもしれない。わりにスタティックで積極的ではない。
それに対して松下の思想には一つのメルクマールがある。「ある声の誘いに応じて、長年にわたって手にしてきた〈網〉を捨てて、直ちに歩き出すことのできる魂の飢餓」*1がそれだ。もちろんある場合にはわたしの〈正確〉も直ちに歩き出すことができなければならないのであるが。
松下について書こうとしはじめたのに、わたしのことをつい書いてしまったのは、松下のダイナミックな〈仮装〉論をわたしの平板な二元論に翻訳してしまうおそれ*2がまずあるだろうということを確認しておくためである。
どうも話が外れたのだが、私が松下昇の存在を知ったのは、高校生の時の朝日ジャーナル(69年か70年)と大学の時の『あんかるわ別号・深夜版』とあんかるわ(村尾健吉氏の文章が毎回載っていた)だった。ということを書くつもりだった。その高校/大学という経過に対し受験以外に私にとってはもっと大きな落差があって、その問題はいまだにそっくり残っているのだということを再確認したのでした。