2014-12-31
■ ウィキペディア「松下昇」
だいぶ削られている!
削除内訳
(最新 | 前) 2014年12月31日 (水) 04:25 島光 (会話 | 投稿記録) m . . (7,904バイト) (-18) . . (→来歴) (取り消し)
(最新 | 前) 2014年12月28日 (日) 10:58 KurodaSho (会話 | 投稿記録) . . (7,922バイト) (-6,483) . . (wikify, rm 「情況への発言」 WP:NOR, rm 「表現及び生前の刊行パンフ」 WP:IINFO, rm 個人サイト WP:ELNO, + stub, Category:日本の思想家 に差し替え, + Category:1996年没) (取り消し)
WP:NOR
Wikipedia:独自研究は載せない
WP:IINFO
ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません
WP:ELNO
掲載すべきでない外部リンク
「検証不可能な記述によって読者に誤解を与えるようなサイト。これはWikipedia:検証可能性のガイドラインを外部リンク先の内容にも準用することを意味します。」
に該当するのか?
■ 削られた主要な部分
情況への発言
・・・いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。(バリケード的表現 一九六九年八月〈 〉にて)<ref>http://666999.info/matu/data/jokyo.html あんかるわ別号<深夜版 2>松下昇表現集 p5]</ref>・・・
謎めいたしかしふとしたはずみにまた浮かび上がってくるフレーズで、松下は当時の学生たちに大きな影響を与えた。上の断片は自分の内部にある「ふれたくないテーマ」を取り上げている。考えるとき人は、問題意識を先立ててそれに照らされたものしか見ない。大学闘争末期であれば、大学の卒業資格を得るために「正常化」された大学の単位制に復帰するかどうか、が問われた。いわゆる自己否定論|自己否定?の問題である。「いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマ」という言葉は、そうした問題(自己の存在基盤という問題)として理解されるかもしれない。そう考えても良いが、文字どおりは、もっと茫漠としたものだ。異性との関係、親との葛藤、目の前にある闘争に熱中していていいのかという不安、など問題として対象化しきれていない様々なテーマがある。
自分が何にふれたくない、隠したいと思っているのかを自覚できるだろうか?、少なくともそれについて上手く考えることはできないはずだ。しかし松下は、まずそう問うことから始めようとする。政治的スローガン(その正しさを松下は疑っていないのだが、疑っていたとしても同じことなのだ)があってそこから自己と世界を考えるのではなく、世界が姿を変えるのを知っている〈自己の不安〉に定位するのだ。
■ 「六甲」掲載しました
■ 六甲のテキスト
HTML化に取り組んでいる。
テキストは空白行で、断章に分かれている。
断章の始まりは1字字下げ。
1)ところが、序章「人かげのない展望台をすぎると、」の
ところは丁度ページの切れ目のためか、空白行がない。
ここから断章と考えてよいか?
内容的には判断できない。あんかるわ版を尊重し、
区切らないと考えてみる。
2)2章の二つ目、「本文の中に影を落す前に、」
の前も空白行がない。
ここから断章と考えてよいか?
3章の最初の断章と同じなので、区切らないと考えてみる。
3)第四章は「* 第四章にむかってにじみでる」といった
記号から始まる。これは「※」 でも「*」でもなく
「米」を幾何学模様にしたような形。
でないので「*」で代用する。
4)第四章まんなかへん、[↓↑]上向き矢印と下向き矢印を組み合わせた記号を使っている。表示できないので
とりあえず、下記のようにしている。
「α1→←α2 β1→←β2 γ1→←γ2 と対比でき、」