松下昇~〈 〉闘争資料

2011-06-25

「生活手段(職業)」

一ヶ月ぶりに、概念集の一項目「生活手段(職業)」をUPした。

http://666999.info/matu/data0/gainen38.php


松下のような生き方を紹介した場合、しっかりした庶民の典型的な反応としては彼がどうやって食っているのか?に、興味を集中するということが良く起こる。日々の暮らしをどうやって立てるか、毎月の収入をなんとかして確保していくその最低限の維持が最大の関心であるのは当然だ。

一つの職場で筋を通し、結果として離職に追いやられる。自分の思想、感情からの行動と職場の空気が矛盾する場合、自己表現をある限界を越えてまで展開すればそういうことになる(可能性が強い)。しかしその後の生活をどうするのか。止めたら、より悪い職場環境に頭を下げて入れてもらうという選択肢しかないなら、止めるのは馬鹿がやることだとなる。それでもそうした「馬鹿」は少なくとも映画や小説では人気がある。現実にはできないからフィクションとして人気があるのだ。

さて、「現実にはできない」とは本当か、大学を止めた教師や学生は多い。できないわけではない。そして「不利になる」、それも疑わしい。人生の有利不利など生きてみなければ分からない。


いろいろ言っても結局、私たちはいつも、生計を立てるということが人生の最大事であるという意識から逃れることはできない。


松下がそれに対置するのは、〈仮装労働〉論というものだ。

これはインターネットという場面で考えれば、idとpasswordの共有である。現在非常に多くの職場で、idとpasswordなしには仕事を始められなくなっている。そしてアクセスするのはインターネット、イントラネット、社内LANにある共有ファイルである。

仕事というのは元々一人の個人がこれだけの分量成し遂げたと言いうる場合は少なく、数人の人の共同作業である。かってならある個人Aが40行の書類作成すればそれは彼の百%の仕事と評価できた。しかし同じ仕事をワープロでやると去年Bさんが作成した書類を10%訂正しただけ、となる。この場合、仕事量(労働時間)が減ったとも考えられるが、仕事をBさんと共有したと考えることができる。むしろここで受け取る賃金を減らさないためには、Aが作った書類作成料のかなりの割合をBさんに渡すということが考えられてよい。


「ジャンルや制度の根拠に対するの問いを深めるために、数人のグループで任意の仕事を引き受ける」 仕事とは何か、サラリーマンが机についていれば給料をもらえるがそれでよいのか。現在、正社員と非正規社員の格差が大きな社会問題になっている。まあはっきり言えば非正規社員は正規社員と同等の質の労働をしているのだから、正規社員の賃金は非正規社員と同等に引き下げるべきである。その上で非正規社員全員の賃金を大幅に引き上げるべきである。

そのそも従来の労働といったものは従来ほど長時間必要ではなくなっている。時間あたり賃金を引き上げるしかないのである。これは絵空事ではなくヨーロッパの一部では実現していることだ。


「ジャンルや制度の根拠に対するの問いを深める」について松下の考えたのはそんな事ではない、と言われるだろう。

絵を書き、歌を歌う事で生活している人がいる。しかしおそらく絵を書くことはまず、彼/女の喜びであり生の拡充であり精密化である、報酬はその結果にすぎない。おそらくどのような仕事に対しても同じような価値の転換が可能であるはずだと松下は考えた(はずだ)。

例えば、公務員の仕事の一つは利害の調整である。一つの小さな共同体において利害が対立する、その調整をするのは興味深くやりがいがある仕事である。


土地や金銭を所有するという制度も本来人が生きるための手段にすぎない。しかし現実は自己~世界の構造自体がそれらの制度によって致命的に歪められている。そうであることに気づきそれを転倒していくことが集団的に行われることはありうるし、それをこそ行っていかなければならない。

「この段階の共有と、そこからの解放の試み自体を生活手段として生きること、この試みを許容しない力や制度と持続的にたたかうこと、このたたかいに参加する人やテーマを拡大していくこと、」という表現は抽象的だが、そういう風に受け取っていくことができるだろう。

公務員と偽証

〈公務員〉という職業について、私の体験をこめてのべると、最も〈偽証〉を強いられる職種である。

公務員は「全体の奉仕者」として本来は規定されている。しかし実際には組織や上司の命令に従わないといけないという副次的ルール、に縛られている。

普通は組織(会社)の命令であっても裁判所などから見れば間違っている事は当然にありうるのに対し、国、地方公共団体の命令は一旦は正しいとみなされる。国、地方公共団体の命令が間違っている場合、だれがどのようにそれを明らかにしていくのか。日本の裁判所はその機能を果たしていない。民衆もそうした問題意識を持たず、不正を感じても愚痴を言うだけだ。そのような構造をどうしていけばよいのか?