松下昇~〈 〉闘争資料

2008-04-29

久しぶりに概念集作業、ゲームとは・・・

 概念集のテクストをとりあえずなんとかふやしていこうと思い、

概念集5の「ゲームの(不)可能性」をとりあげてUPした。

UPまではしたのだが、目次が

75 ��������Բ�ǽ� 5-9 内容

というふうに文字化けしてしまった。これは、データとデータベース付きのデータ置き場としてハッスルサーバーというところを使っているがそこが指定している文字コードecu であるせい。なんとか訂正することができた。


「ゲームの(不)可能性」という3頁の文章はなにが書いてあるか。わたしの人生はいったいひとつのへたくそに作られたゲームとどこが違うのか?21世紀になってそうした問がわたしたちの存在を浸食するようになった。かってはゲームと人生は隔絶したものであった。まあ思えば、過去においても受験戦争や出世競争などに人生を賭けるひとはいくらでもいた。しかし現在はその気がないひとでも商品消費と欲望と競争を強いられ落ちこぼれは空虚感に襲われるようにプログラムされている。わたしが人間であるかぎりプログラムされている、という述語は本来おかしいのだがそれほど違和感がない。そのようなアンチユートピアを予感して書かれたもの、と読んでもよい。

こう書いてみて確認できるのはわたしのようなひとは「ゲームへの反感」も凡庸な水準に留まっているということだ。つまり時代なり支配者なりといった強大な他者(他者ですらない「お上」かもしれない)がわたしたちをコントロールしわたしたちはそれに正面から反撃できず愚痴をいうだけだ。といったように情況がとらえられている。

松下はゲームとは何かと問う。そして

(1)ゲームをする者(プレイヤー)が相互にゲームをしていると意識している。

(2)共通の規則(ルール)に従う。

(3)利害や損失を量的に計算し、比較する。

という3つの条件を見出す。つまり「お上」とか「無力感」から遠いところにゲームは本来存在する。

わたしたちの社会は不条理に満ちている。それは(プレイヤー)の対等性と相互性といったルールがあらかじめ踏みにじられてるのにそれには触れずに意欲をもって競争(ゲーム)に参加することだけ強いられる点に表れる。

わたしたちは考え始めようとしてもつねに「お上」とか「無力感」とかいったところにはまりこんでしまい、考えつづけることができない。実感から離脱しないようにという条件の下で思考するならそれももっともなことであるわけですが。でもそれでは思考するの名に値しない。松下の思考法は確かに少しアクロバティックなところはあるのですが、敗北感にたどり着くまでにわたしたちにはまだまだ余地があることを教えてくれる。