松下昇~〈 〉闘争資料

2008-04-26

詩は書かれなくとも存在する。

 書かれない小説というのは存在しないけどね、私の信念のなかにあっては詩は書かれなくても存在するねん。詩というものは銘々がもっているもので、詩人と言われる人たちの独占物ではないわけだ。人はみんな喉元いっぱい突き上げる自分の澱みをかかえている。生きることを生きている。一生涯線路工夫で終わる人もいるし、料理人で終わる人もいるし、出世することに関心がなくしこしこと平教員で働いている人もいる。広島の人でね、三十年近くどこかで核実験があったら、いつも同じ場所でひとり座っているおっさんがおるのよね。何十年も黙って。それがもう詩なんだな。そのあり方が。そういう人たちの存在に思いを馳せたら詩の言葉が生まれるんだね。たまさか、詩人というものは言葉で詩を書いてはいるが、ほかの多くの人は自分の生き方で詩を生きているんだ。

 詩というものは一番美しいもの、一番自分の信念が凝り固まったもの。詩を普遍的に語るとそういえると思う。

http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi/061101/index.html

 詩人金時鐘はそう語っている。

わたしは生きることを生きている。わたしはインターネット〜パソコンという巨大なネットワーク〜装置のなかで、短い文章を書き写した。書き写したわけでもなく一瞬でコピーアンドペーストした。だからといって、わたしが生きることを生きているという命題が虚偽にはならないわけで。


わたしは生きることを生きている。とはいってもわたしには何もない。漢語でいえば虚無だろうか。

  低く仄かに呼ばう声あって

  出てみれば、ああ出てみれば

  過ぎし日のおぼろな思い出の如く

  目には見えぬ花の息吹だけが

  かのひとのかぐわしい気品のように慕ってくる!

  あ、刺されもせぬにずきずき痛む わが心

卞栄魯(ピョン ヨンノ)金時鐘訳 p140 再訳朝鮮詩集 isbn:9784000238427 )

わたしはここにいるのだからして、わたしであることはできる。と考えても実はできない。考えることは意識であることで、意識であることは私であることではないからだ。でも結局のところ「生きることを生きている」ところのなにかがわたしである、とわたしは肯定する。


勿論、この重心の存在は、表現したり読んだりする場合に不可欠の条件であるとはいえないのであるが、表現過程や表現内容が、たんに表現したり読んだりする関係のレベルを超えて具体化している以上、ある表現の出現は、現在の段階で自明と認識されているレベルを超えて意味づけられうるはずであり、この意味づけに際して前記の重心の位置づけは、一つの大きい測定基軸になりうるであろう。

松下昇「表現の重心」より

 文学史の教授が「この詩のキモはここでそれが次の時代にはこう展開していくのだと講義している」といった情景をどちらかというと思い浮かべてしまう、表現の重心という言葉を聞いたときに。わたしのそうした感想は勘違いではない。

「概念集9の〈重心〉は可視的なページの次元からはみ出したところに位置し、生成し続けているのかも知れないことは、まだ殆ど手を触れていないメモ群や存在の軌跡からも想像できるし、それをこそ把握し提出すべきではある」

〈はみ出したところに位置し、生成し続けている〉何かを信じ生きつづけることができた、松下は。松下のような呼吸はわたしには到底不可能だがでも、〈何か〉は権利として私にも開かれていることは確かだと私には思える。