2008-03-05
■ ワープロとケータイ
「ワープロによる刊行」に触発されつつ
このパンフは1990年に出されたものであり18年前だ。当時最先端だったワープロ機はいまや使う人もいなくなっている。
しかしいまやパソコンやケータイで文章を書く(作る)という意識すらなく人々はキーを叩きつづけている。すなわち松下の場合は自分がパンフレット作成を継続するという前提がありその上で、「〈時の楔通信〉の刊行に要した費用の数分の一で以後のパンフの刊行が可能になり、原稿作成〜編集〜印刷〜配布の全過程に全責任をもって関わりうるようになっている。」という利点を認めた。
全国民がケータイで文章を打つと言う事態は、松下は想定していなかった。表現はすべて自己表現であり、マイノリティが自己表現できるようになるときが切望された。考えてみれば全国民がケータイで文章を打つことができるということは、いつでも人民の意志を獲得できるということである。
しかし容易にそうはならないであろう要因をも松下は見通していた。
無意識のうちにコンピュータ的論理に包括され、合理化〜管理化されやすい条件を自分で準備してしまう。
自分の直接表現の特性を生かせなくなり、表現内容が装置に逆規定され、画一化や惰性化をもたらす。
「合理化〜管理化されやすい条件を自分で準備してしまう。」というのはまさにそのとおりであろう。というか私たちの現在は「改革」という意味不明の言語が猛威を振るい、合理化〜管理化=善という宣伝が毎日ふりそそがれる状況である。しかしそれだけを原因だとして恨んでもしかたない。従属情況をつくり出しているのは、むしろわたしたち自身である。とすれば、わたしたちが変わることにより情況は変わる。
1 新しい技術に触れる場合には意志的に不快な表情をしたいと思っていても、つい新しい玩具を与えられた子どものようにのめりこんでしまう。
最初の項目で玩具という言葉が出てくるのが注目される。ワープロからパソコンへという流れは当時も予測されていたであろうが、ワープロからケータイへという流れがありうるなどと誰も考えていなかった。〈新しい玩具〉というキーワードはまさに(いまだなかった)ケータイにぴったり当てはまる。
5 この他に気付いていないものかありうるが、それらを含む問題点をおぼろ気に感じつつも使用を開始してしまう契機(偶然ないし必然的条件、それをもたらす時代のレベル)を忘れ、使用習慣を既成事実化してしまう。
わたしにとってはパソコン〜インターネット使用は完全にそこから抜け出せないものとなっている。(自覚不可能な)使用習慣の既成事実化こそが最大の問題である*1という問題意識は、まず可能な既成事実化への挑戦として、インテルとウィンドウズという軛(くびき)からの脱却という問題意識をもたらす。そして<68年思想>の最大の収穫であるオープンソース運動は、素人でも容易にウィンドウズという軛(くびき)からの脱却が可能であるという状況をもたらした。
それが軛(くびき)からの脱却であるとオプティミスティックに評価してよいのかと問を立てるひとがいる。それに対して安易に答える必要はない。問は答えられ得るとする無自覚な平面に世界を平板化してしまうことが、敗北であり、敗北の平面にだけ居住したうえできみの脱出の論理には説得力がないと言いたがる人にはまず憐れみを感じておけば良い。
*1:倒錯した現実へのなしくずし感覚の根底にある自然さを、どのように粉砕するのか