松下昇~〈 〉闘争資料

2007-10-19

法=国家を支える表現の根拠を解体せよ?

村尾建吉氏の文章。

 わたしたちの日常性に底流している通俗性に基盤を置いている〈起訴状〉のような死せる文章がわたしたちを放逐していく状況、このような状況を〈起訴状況〉と名付けてもいいわけだが、この〈起訴状況〉に包囲されてわたしたちは被告仮装することによって〈起訴状〉を引きずり出し、法=国家を支える表現の根拠を解体していかねばならない。

白夜通信3号 1971.5.5  あんかるわ29号 P5に転載

大変わかりやすい骨格を持った文章だ。結論は(わたしあるいはあなたは)法=国家を支える表現の根拠を解体していかねばならない、である。

対するに松下は「〜〜しなければならない」とは語らない。

むしろはっきりそう言っている。

それゆえ、残りの数十行に私が断片的に、一気に埋める言葉は、純粋に私だけのものである。

 この世界で最も幻想性にあふれた領域で、固有のスローガン、戦術を媒介として問われているのは、おそらく、つぶやきからゲバルトをへて国家、さらには宇宙に至る全ての表現の根拠の変革である。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

松下の言うことは規模が大きく夢幻的なセリフのようにも受け取れてしまう。

 { }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e5%a4%a7%e5%ad%a6%e9%97%98%e4%ba%89?kid=2

 こちらではより正確に語っている。しかし、

 「対象化に要する時間性が人間の生涯より長い」とは、普通考えると要は「対象化できない」ということだな、だったらそんなことは私には荷が重い、、止めておこう、といったようなものだろう。しかし松下はそれを平気で語ってしまう。そして、出会いの時間のなかで、他者にそれを誘い、命じることもあった。

今日はとりあえず、村尾松下の差異についてのメモとして。

追記:

対象化という言葉にも注意が必要だ。ある不定型なものを分析し文節化していく作業には違いない。しかし大学院生や学者がやるように、自己=主体を少しも変容させずに行うそれではない。むしろ自己=主体の変容に重点がある。しかし何から何に変わるのかなどということが名指されることはない。 特定の情況〜関係を離れて言葉にできるはずもないことでもあるから。