参加ないし出頭することを関係性から要請されている場合に、あえて要請に応えずに別の時・空間に存在することによって、関係性への反批評ないし転倒を試みる行為。
さまざまな思想史的な概念規定を詳しく調べてから述べるのではなく、また、調べてみることからは前記の行為への発想は生じなかったかもしれないと考えつつ述べるのであるが、多くの概念規定においては、非存在という言葉から消極的ないし否定的な意味づけをしているであろう。(註1)
しかし69年以降に非存在の方法が開示してきたのは、運動エネルギーに満ちた積極性であった。いくつかの例を上げると、
a-会議(教授会など)や授業への公開的な意志表示をともなう欠席
b-大学当局が設定する審査を打ち切らせない楔を打ち込みつつ行なう欠席
c-警察当局の任意出頭要求の拒否や、逮捕状が出た後の潜伏(声明を媒介的に出す)
d-裁判所が召喚する公判への不出頭(分離された他の公判への出頭は持続)
などがまず想起される。特性として、社会的に上限の強制力をもつ関係性に対する孤立したしかし本質的には対等の比重を持つ対処の仕方であることが上げられるが、それと共に、前記の行為は期限つきのものではなく永続性を帯びていること、および、強いられる、時・空間に匹敵するものの創出を目指していることを強調しておく。a、bは生産点における無期限ストや反処分闘争、c、dは、一般的な反権力性と重なる部分は勿論あるが、そこからはみだす跳躍度に注目すべきであろう。
情況的な推移によって次のような例も現れてくる。(註2)
e-刑事事件による被拘束状態を逆用する他の事件(刑事、民事、人事院審理など)への非存在的な(ある意味で存在するより存在的な)参加
f-これまでの共闘者との未対象化のテーマ群を具体化する媒介としての会議や審理への非参加(対権力関係にとどまらない偏差~抑圧関係を開示する契機として)
などが70年代に大きい成果を示し、現在まで方法的にも深化し続けている。
表現論に交差させて述べると、本来、非存在のイメージに最もふさわしいのは、中身の視えない〈 〉であり、a~gや、さらにあふれ出る各項目は、〈 〉闘争と呼ばれる、名付けがたい過程の特性でもある。非存在の概念に存在している現実性や運動性は、この概念を、人間の生きる全幻想性の領域を把握し、変革していくことのできる位相へ押し上げた世界史的必然から来ているであろう。ところで、ワープロの初心者である筆者が、いま一番面白く感じているのは、空白の挿入や削除によって移動や結合を可能にする技術のさまざまな領域への応用であることも付け加えておく。
(註1) 図書館などで手当たり次第に読んだ限りでは、予測通りであった。西洋思想では、非存在を非実在ないし無として把握する傾向が強く、東洋思想では逆に一種の有として把握しつつも静止状態に放置しているように感じられた。詳細は、直接討論で述べる。
(註2) a~gに関連する具体例については、まず、五月三日の会通信24号27ページ以下の非存在闘争論(序)を読み、その後で、時の楔通信の各号に散在している非存在のテーマへの言及に注目していただければ幸いである。
(註3) 仮装、宙吊りについては、別の項目で扱う。この概念を、非存在と交差させて論じているものとして、73年~75年に同志社大学で行った発言記録(発言集に収録)等を乞参照。
『概念集 1』p16-17
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