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申し立ての極限

申し立ての極限

 申し立ての極限


 裁判所の決定(1)に対して異議ないし取消の申し立て(1)をおこなった場合、殆ど

確実に却下(申し立ての根拠かない。)ないし棄却(申し立ての根拠はあるが主張は取り

上げない。)の決定(2)が出される。これに対して、さらに上級の裁判所へ異議ないし

取消の申し立て(2…名称としては、高裁へ提出する時は即時抗告、最高裁へ提出する時

は特別抗告。)をおこなった場合、殆ど確実に却下ないし棄却される。これに対して、さ

らに申し立て(3)以降をつみ重ねても結果は、まず変わらない。決定理由は一〜二回目

までは、いくらか申し立て理由に触れる判断をすることもあるが、三回目は「抗告理由に

当たらない。」、四回目からは、「最高裁の決定に対して抗告することはできない。」の

ワン・パターンになる。


 表現の相互批評という視点から考えた場合、前記の現状以上に不公平かつ非論理的な批

評の場は存在しない。あらゆる批評家ないし批評に関心をもつ人は、この現状をみずから

くぐってから批評について考察してほしい。それなしの考察は、他の水準に関してはとも

かくとして、現段階の最高水準の共同幻想としての国家に決して迫りえないのであること

を強調しておきたい。


 私たちは、この二十年間、不可避的に申し立てと決定の無限地獄を巡ってきた。もし、

途中で放棄すれば、闘争の原初性を追求し続ける回路の一つを放棄することになるから。

とはいえ、この回路を尊重しているのではないし、この回路以外の方法を追求しなかった

わけでもない。逆に、前記の法的な回路の疎外〜桎梏性が現実の最高水準の比喩であるこ

とを痛感し、この回路以外のさまざまな方法を見出していく媒介としてこそ、法的な回路

にも固執してきたという方が正確である。

 

 これまで試みてきた一部を開示してみよう。詳細および他の例は質問者に開示可能。


1.ある申し立て(α)を忌避(この項目参照)の申し立て(β)と併合的におこなう。

 つまり、βの根拠や審理の条件を交差させることにより、問題点を全当事者で、より深

 く共有していくのである。他のα〜βの経過に関連する申し立て(γ)を更に併合して

 いくこともある。


2.対等の論理的な対立の場では成立しようのない理由で裁判所が申し立てを退けても、制

 度的に三回以上の申し立てはできないといわれても、この拒否の仕方自体の誤りを、制

 度の概念を越える概念ないし行動で明らかにしていく。例として、永続的に最高裁に対

 する特別抗告的〈説教〉をおこなっている宗教者や、パターン化された決定を法廷ない

 し問題の発生した現場で粉砕することにより実質審理を引き寄せる人々がいる。


3.裁判所は決定を出すためには、私たちの提出する又書を既成の様式の枠に押し込めて判

 断するフリをしなければならない。これを逆用して、「これは申し立てにとどまらない

 宣言である。」と冒頭で明記しつつ、申し立て内容に関する直接・対等・公開の判断を

 拒否するならば、こちらの主張を認め、訴訟費用の納入や法的な義務ないし禁止(範囲

 はこちらの任意)の免除を認めたものとみなす、と予告し、実践する。


註一…この項目では、ある審理段階の中で何度でもありうる「裁判所の決定」について論

  じているが、「裁判所の判決」(やはり三審制で、しかも上級審へいくほど判断基準

  が体制的になる。)に対する控訴や上告の申し立てにも勿論あてはまる。



 二 原子力発電の核燃料サイクル施設の建設の停止など環境汚染に関する仮処分申請の

  申し立てに対して、裁判所が、原告には申し立ての資格・適格性がないとして却下す

  るケースが多くなっている。却下の理由は、国家ないし社会全体の利益をはかる行為

  に対して、個々の住民が自らの不利益に関して訴えうる法的な規定はないし、個々人

  の不利益は公共の利益の中に包摂〜吸収されている、という被告(国など)の主張を

  追認するものが基本である。ここには公共性の根拠を全情況〜文明的視点から問い直

  す主体としての大衆存在は配慮の外に排除されており、六九年以後の大学闘争におけ

  る刑事被告人に対する(非)論理が、いま民事原告として登場しはじめた大衆に適用

  されつつあるといえるが、一方、神戸大学A四三〇号室、京都大学A三六七号室や東

  京新国際空港予定地のように、体制側の使用を拒否する勢力が強いとみなす場合には

  逆に国側が仮処分を申清し、裁判所は直ちに認めるという構造が確立していることを

  考えると、裁判過程の取組みは、裁判制度の限界を含む個別の問題点を大衆的に明ら

  かにするために展開する場合にのみ意味を持つことが明らかになる。従って〈申し立

  て〉を極限までおこなうとしても、申し立てを認めてもらうためではなく、それを拒

  否してくる力に対して尚も提起しつづけうる根拠を作り出すために仮装的におこなう

  のが原則であろう。その場合に参考にしてほしい項目を、いくつか挙げておく。


  1.現在までの自他の発想〜存在様式を保持したままで「申し立て」をおこなう場合に

   は、必ず体制に吸収され、秩序を補強してしまう。それの変換の度合でのみ、巨大

   な国家や技術に対して異議を提起しうるのである。ただし、このことは苦行ではな

   く、本来的な楽しさと無関係ではないことや、このように生き方を支える拠点はた

   くさん存在しているから秩序社会からの離脱〜排除を怖れる必要のないことも、私

   たちの経験から補足しておこう。


  2.思想的な根拠〜契機に関しては、概念集・2の〈技術〉、〈職業(生活手段)〉、

   〈参加〉などを参照していただきたい。なお、ここにのべた姿勢に批判的に言及な

   いし対立する者がいるとして、かれらの関わる生活思想や専門分野での達成を内在

   的に抜き去る実力の形成〜開示が反批判の前提である。


  3.「申し立て」という概念は権力の強制する方向での概念であり、この方向は獄中で

   極限に達し、名称も「上申書」ないし「願いごと」(!)となる。それさえ許可さ

   れない場合も多い。一方、対権力で生じる表現論的な問題を、その範囲内でだけ追

   求せずに、さまざまな集団や関係や存在に対する提起において生じる問題と併合的

   に把握し、それぞれの試みに還流させ、応用していくことが重要である。

(『概念集・3』p7-8)