75.ゲバ棒の中の青春 2003.04.06
神戸の大地震の前の年の夏、T君と私は、S大の学生運動セクト「S同K派」のBOXの遺跡に忍び込み、「部落解放」ヘルメットをかぶって写真を撮ったりした。そのBOXには何年も人が入っていないらしく、ほこりだらけだった。書類がたくさん残っていて、他の資料と合わせていろいろなことがわかった。このセクトは革マル派と敵対していたこと、その数年前にHという女性が逮捕されて滅んでしまったこと、彼女はその凶暴さから他セクトに恐れられていたらしいこと等である。ほかにも驚くべきことが明らかになった。あの《》思想研究家の講師に対するインタビュー記事が、彼らの機関誌から発見されたのである。
《》思想とは、すべてのものをカッコでくるむという(?)思想である。S大のある講師が唱えたものだ。その講師は《》思想に基づいて、壁や屋上のあちこちに《》マークをペンキで書き殴って回ったり、学内でたこ焼きを売ったりしたので、解雇されてしまった。ところが、彼は自分の部屋を手放そうとしなかった。業を煮やした学校は、部屋のドアを塗りつぶして壁にしてしまった。それ以来、その部屋は外から見たらあるのに中から見るとない、不思議な部屋になった。彼はその後も学校で、自分の主張を訴える機関紙を配っていたという(ただし、内容は意味不明)。ペンキの字はずっと後まで残っていた。
彼は学生運動に理解を示したらしいのだが、その理解が《》思想に基づくものだったので、記事は珍妙極まるものとなっていた。
ずっと後になってから、自分の学校の寮の友人の部屋に行ったとき、同室者(寮なので1部屋に2人で住んでいた)の人と喋っていてなぜか学生運動とセクトの話になった。すると彼は「Hって知ってる?」ときいてきた。なんと彼は以前S大にいて、まさに逮捕されて暴れる彼女の姿を見たというのである。世間は狭いものだなあ、と感動したものだ。
【字数指定なし】
【参考】T君の文章(名前など一部改変)
革命思想
私は所謂左翼と呼ばれる人々に興味を抱き、革命を目指す彼らの行動、生態を観察した時期がある。彼らの行動を理解するために、立花隆著「中核V.S.革マル」を読んだのを皮切りに、連合赤軍犯人の自伝や全共闘の写真集、体験談などを貪るように読んだ。
私のいた大学のK学部には革マル派の人々がよく出没していた。革マル派は正式名称をマルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派という。神戸小学生殺人事件について、犯人逮捕後に権力の陰謀による冤罪説を主張し、健在ぶりを見せてくれた事は記憶に新しい。彼等と彼等に敵対する民主青年同盟(民青同盟)の論争は第三者から見れば蝸牛角上の争いと言えるが、当事者にしてみれば全人格を賭している。学内に現存する革マル派、民青同盟に加えて、かつては社会主義青年同盟解放派(社青同解放派)というセクトがあり、三つ巴の対立闘争を繰り広げていたらしい。K学部の随所にある闘争の跡から当時の模様を推察できる。解放派は神社を焼き討ちし、学生寮に住む革マル派のO氏を鉄パイプ襲撃するなど、激しい闘争をしていた。革マル派のO氏は私が入学した頃はまだ第II課程の学生として在籍していた。「革マル派Oを殲滅したぞ!」という古びたビラもK学部に残っていた。当時のO氏は二十八歳、何年も留年していた。
K学部B110教室の裏には解放派の本拠地が残っていて、私は何度かそこに侵入してみた。解放派は学内では部落解放研究会(解放研)として行動しており、あろう事か大学公認団体で、内線電話まで引いていた。そこはまるでタイムトンネルのような所であった。天井に大きく「団結」の文字があり、機関紙、対立するセクトについての資料、古い輪転機、ヘルメットなどがあった。敵の急襲に備えて窓にはすべて金網が張られ、入り口は本棚やロッカーで狭く、入り組んでいた。解放派の学内における最後の代表者はHという女性で、かつてその人が使っていたと思われる女物の筆箱と折り畳み傘も残っていた。Hこそが革マル派のO氏を鉄パイプ襲撃した人物である。女性ながら恐ろしいものである。K学部のトイレに「解放研=解放派・Hによる住吉寮長O君襲撃を怒りを込め糾弾する!青ヘル姿でO殲滅は偉大なる戦果と宣伝するHは…(以下不明)」というビラが残っていた。
とにかく、我々の世代とは縁遠いものと考えていたゲバ棒の青春が身近な所に残っていたのだった。この部屋は2年ほどして何故か施錠されてしまった。何度目かの侵入の際に「部落解放」と書かれたヘルメットを失敬したが、今となっては貴重な財産である。プレイボーイが平凡パンチを失ったように、革マル派も解放派を失ってしまった。今の敵の民青同盟は所詮は共産党の傀儡でしかない。解放派と革マル派の熱き闘いを是非この目で見たかったものである。
前述のB110教室で自主解放講座を開いた造反教師松下昇氏が、一昨年他界した。松下氏はK学部A棟4階にある開かずの部屋を使っていた人である。学生運動吹き荒れた時代は、学内における有名人であった。廊下に「永続するS大闘争」「六甲空間は世界を包圍する」といった落書きが数年前まで残っていたが、これも松下氏の仕業である。彼は造反教師として学生と共に大学当局と闘い、その象徴としてB110の前の広場で蛸焼きを売ったりした。学生には人気があったという。M棟の屋上に〈〉マークが多く書いてあったが、これは松下氏の全ての物をカッコで括るというイデオロギーの表われらしい。松下氏は大学を免職になった後もたびたび部屋に出入りしたため、大学当局は部屋を封鎖してしまった。以来二十年、松下研究室は開かずの間となったのである。だが松下氏はなお研究室の使用権を主張し、私が国際文化学部にいた頃は時々部屋に来ていたようである。ドアに封筒がつけられてあり、松下昇概念集といったプリントがあった。前述の解放派のボックスにも、松下昇公演の記録が残っていた。オウム事件の際、ティローパ早川紀代秀がS大出身という事で、TV局が松下氏にインタヴューをした事があった。ここで私は初めて松下氏の声を聞いた。松下氏の死後、開かずの間は改装され、会議室になった。こうして松下氏の遺物は消えて行く。そして一時代を築いた松下氏の事も遠からず忘れ去られてしまうのだろう。冥福を祈りたい。
友人の大山氏が通っていたK大では革マル派は少なく、むしろ活躍しているのは中核派の人々である。流石に旧帝大だけあって彼等の活動は活発である。私の友人Oは大学でテストを受けているときに突然中核派の人々が乱入し、「君達、テストなんか受けている場合じゃないだろう。北朝鮮が侵略されようとしているんだぞ」と言われたらしい。北朝鮮に国連の査察が入る事で揉めていた時期である。同じ頃、私が大学で拾った革マル派のビラに「特別天然記念物的に学内に生息している権力の走狗集団=中核派断固として追いつめつつ…」というK大の同志からの報告が載っていた。一応K大にも少数ながら革マル派はいるわけだ。左翼の特徴として無謬主義がある。K大で革マル派は中核派に数の上で劣っているのだが、関係なくこのような強気な発言をする。互いに反革命と呼び合う両派の対立は根深く、既に何人もの犠牲者が出ている。思想を持つのは大いに結構だが、落命しては何にもならない。
革命思想とは無縁だが、このK大には革セー同ML派という団体があった。革命的セーラームーン主義者同盟ムーンライト派の略である。新左翼セクトとして社学同ML派(社会主義学生同盟マルクス・レーニン主義派)というものがあったが、恐らくこれを意識して作った名前であろう。知人によると、革セー同ML派は中核派の人々で、かつセーラームーンが好きだという人によって構成されているという説があるらしい。だとすれば前時代的な革命思想と現代アニメーションの奇妙な融合である。
ゆえあって八丈島の南約七〇キロの青ヶ島という島に渡ったとき、元革マル派の闘士で今は自然主義に落ち着いた人に出会った。青ヶ島は東京都には属するものの、週数便の八丈島からの連絡船を頼りに生きる孤島である。彼は早稲田大にいた頃の闘争や解放区を作った話を聞かせてくれた。留置所にも何度か入った事があるらしい。そして革マル派の結党当時の指導者で今も思想的中心である黒田寛一、今はユダヤ陰謀史観に陥っている太田龍などの高名な思想家とも面識があり、当時の闘争の様相を問わずがたりに語ってくれた。彼は今、革命思想を捨てて孤島で農業を営んでいるが、元革命家と聞いても印象にそぐわぬ、温和な人であった。「気障な言い方をさせてもらえれば、人間は土と離れたら生きていけないんだ」こう語る彼の瞳には何か強い意志が宿っていた。よもや絶海の孤島で革命の話を聞けるとは思ってもいなかった。本当に貴重な経験をしたものである。
この他、先日出所した神戸在住の孤高の闘士奥崎謙三や、友人Tが所属していたゼミにいる世界統一政府思想を持つ男など触れたい話題はあるが、彼らについて書くと余りにも長くなるので、割愛させて頂く。
それにしても六〇年代後半から七〇年代とは何と魅惑的な世界であろうか。革命に限らず、フォークソング、文学、漫画、劇画なども珠玉の作品が多く生まれている。まさに昭和文化の爛熟した時期と言えよう。この時代は私にとって限りなき憧憬を抱かせる。三畳一間の小さな下宿に住み、無精髭と髪を伸ばして学生集会に出かけ、学生街の喫茶店で恋愛や思想を語り合い、二十歳の原点を認識する事は我が野望の一つであった。最早見果てぬ夢となってしまったが。
革命、それはいつの時代も若き命を燃やす対象となるようだ。
http://www.geocities.co.jp/Bookend/2959/text/80.html
ハイリハイリフレ背後霊過去ログ71~80