村尾さんへ
5/22付のゲラの送付、ありがとうございます。
(1)『存在と言語・1』の配布の宙吊りを拒否するなかで、さらに『存在と言語・2』の出版企画を着実に進行させているとは“良い根性しているな”と感じました。
わたしたちの無視しえないはずの提起を無視して、授業再開~試験再開を強行した大学当局のような振舞いですね。授業や試験は常識的には善であるものでありその宙吊り提起には強力な理由が必要です。それに対し出版はまさに私人の自由でしかない。授業を阻害する側に挙証責任が求められるのに対し、この場合には挙証責任は出版する側にあるといえるでしょう。
「ズレ自体は恥ではないがその総体をいつでも開示しうること」を松下は言いました。おまえの(村尾あるいは野原の)表現の根拠は解体しているのではないか?を問う〈なにものか〉の声として。
(2)
今回のゲラp253で村尾は「野原氏や永里氏は単なる「批判」を行っているのではない。刊行作業の息の根を止める宙吊り要請を行っているのである。いくら村尾たちの逸脱ぶりが許せないとしても、そのことを自覚してほしい。」と書いている。この被害者意識は何なのか、とちょっと驚いたのだが。わたしや永里さんの提起に「刊行作業の息の根を止める」だけの力量があるとは残念ながら思えない。実際「息の根を止める」ことはできていないのだがそのことは今はおく。「息の根を止める宙吊り要請」と村尾が受け止めた主観的リアリティはどこから来たのか。それは野原/永里ではなく、むしろ村尾自身からきた。
わたしは本を出したことがないので分からなかったのだが、村尾は過去3冊本を出しているが今回は正式の流通ルートにのせない形での出版形態をとっている。これは「あえて」そのような「こそこそした」流通形態を取ったということだ。(としか理解しえない。)違法だされる一線を越え事件化されること、を恐れなかった松下の行動原則とは違う。違っても良いのだが、問題は、この「こそこそ」を村尾が自らの思想に照らして正しいと主張できない点にある。主張できるならしている筈である。主張できないので論点自体を隠そうとするしかない。
これが「公開の話合い」を拒否する村尾の「根拠」である。と断言しても外れていないと思う。
「その総体をいつでも開示しなければならない」というなにものかの命令に最も基底的に背きながら、村尾は何をしようとしているのか!
つづく(6/3現在 草稿)