松下昇~〈 〉闘争資料

2019-02-08時の楔通信 第〈0〉号 感想

pdf化が完了してる

時の楔通信については、永里氏により下記にある目次のとおり、

pdf化が完了している!

http://kusabi.webcrow.jp/matu.html

今まで、知らなかったことを恥じる。

ただこんどの企画は、野原が不十分であっても自分なりにかみ砕いて松下を紹介するというものなので、予定通り進める。


とりあえずこちらにも、2冊分のリンクを引用する。

時の楔通信第〈0〉号(1978年11月) (Part1)(Part2)(Part3)(Part4)(Part5)

時の楔通信第〈1〉号(1979年12月) (Part1)(Part2)(Part3)(Part4)(Part5)(Part6)(Part7)(Part8)

問題点と感想

問題点(いまうまく理解できていない点)と感想

1,大学闘争以後のパラダイムとは?

啓蒙されるべき主体(国民国家の正規メンバー)を前提にせずに、どのように社会運動を組み立てるか、という問題に近いかなと考えた。

 

2,〈情況内 自己〉:変革に向けて励起されている自己を微分的視力で確認し、それを運動させる。

 

3,野原の理解によって湾曲されたものとしても、野原の表現によって、ひとつのわかり易い松下昇を表現する(松下昇像を提出する)。

 

4,大学斗争〜五月三日の会通信 とは何か? 仮装被告団とは?

次回検討する。

 

5,発行の{不}可能性 1978年における{不}可能性、困難さ、「その意味と打開の方向」とはどのようなものか?

 

6,〈十〉年をこえて、きざみつけてきた原則や方法とは?

 

6−2,「すべてを表現論的にもとらえなおす」とは?

{私}たちは、パンフや通信の発行が、それ自体としてプラスであると考えたことはなく、すべてを表現論的にもとらえなおすところから出立している。

 

7,〈ドイツ語〉の成績評価を制度上の担当者から解放し、その段階の卒業予定者と在学生の〈相互評価〉として記入~提出していくこと>障害者運動などにおける当事者の決定権を重視しようとする運動と共通するところがある。また〈当事者〉と〈非当事者・アライally〉との落差を、評価に活かしていくという発想も先駆的。

ただし、単位認定、評価というどこでも行われていることに対する異議申し立てが、過激化し、制度から排除されるものになっていったのは残念だ。大学という制度は敵とみなすべきものではなく、現在の国家からはもはや邪魔者扱いされている。大学内部〜周辺に生き延びるための〈仮装〉のあり方をもっと追求すべきだっただろう。

ただ松下は自分の思想・運動傾向をきわだたせ持続させるためたった一人で努力したのであり、松下にそれを要求するのは過大な要求だろう。

 

7−2,この例でも、自主ゼミ側は、「卒業してしまったM・Kくん」と、素直に討論の持続を求めた。しかし、M・Kくんの側から見た場合に、どのような問題をそこに発見できただろうか。仕事のなかで、自主ゼミで学んだことを活かすといった発想は可能だっただろうか?

「0点評価」をするというのが松下の表現だったが、それは〈情況→運動〉としてあり、企業内活動をかならず無価値とみなすという思想ではない。しかし、企業内に入ってしまった場合、その中で少しづつ変えていく努力の持続が困難であるのも確かだ。野原は後に、ある意味でM・Kくんの代わりに、裁判所に文書を提出することになる。(文書を見つけ出しそのうちUPしよう。)

 

7−3,企業内に入ってしまったM・Kくんはそのせいで、思想の自由に制限を受けた。そう語ることもできる。私はM・Kくんの1年前に卒業し、2年前から無職になった。M・Kくんも今年無事65歳を迎え、「思想の自由の制限」から自由になったはずだ。

ところが、このような自由、開放感について語る人は世間では少ない。40年企業内で生きることで自己自身がすっかり変質してしまっているので、そもそもそのような自由を認識できなくなっているのだ。

ただ(現在の)京大吉田寮に対する廃寮攻撃に反発するサラリーマンは少なくない。であれば私がここで語っている「自由」もその限りでは普遍性を持っていることになる。

 

8,(仮装被告(団)という表現について)の頁

でてくるわけないだろう思いながら、山下鉄雄 裁判長 をググると、なんと出てきた。

http://kusabi.webcrow.jp/matusita/eve.html

◎写実劇『第一回公判』(一幕四場)時 一九七〇年一二月二四日午前一〇時。所 神戸地方裁判所、および京都ー大阪間の電車のなか。の登場人物の一人としてだ。

寄り道になるが、少し読んでみよう。

裁判は認定質問から始まる。当然だ。しかしそれに、「被告A(立ちあがって)それでは、ここで拡大被告団会議を開きたいと思います。」と応える。

「被告A(起立して)なぜかといえば、この〈事件〉の〈被告〉は、ここの〈被告〉席に坐っているものだけではないはずだからです。大学闘争を闘い、いまも闘っているものは、多勢いる。いわば〈仮装被告〉としてわれわれは存在しているのだ。だれだれが傍聴人で、だれだれが被告でなければならぬ、とだれがどういう基準で決定したのか。われわれは、ここにいるすべての人間が、〈被告〉として存在させられていると考える。」

大学闘争のひとコマである騒乱状態のなかで、たまたま被告Aは逮捕され起訴されるに至った。観客(傍聴人B)が本来そちらに座り裁かれることがあり得たというリアリティ。それをむしろ逆転させてみるという存在論的思考実験が〈仮装被告〉論である。

松下らを被告人とする神戸大学闘争第1回公判は1970年12月24日(クリスマス・イヴ)に開廷された。そのときは大勢の学生たちがつめかけ大層賑やかだったわけだが、この通信に記された77.09.21公判(第42回or66回)にもなると寂しくなってしまっていただろう。

ともかく、神戸大学闘争公判がどんなものだったのかを想像するためにこの「写実劇」はとても役立つ。作者池田浩士氏およびこれをUPした友人永里繁行に感謝したい。

 

8−2仮装被告団とは?

その場に居た数人の参加者が被告となり、裁判所において被告団として法的に一体のものとして扱われる。ひとを個人として扱う近代国家の例外である。同じ革命思想を持つ何人かの個人が結社を作るという原理ではなく、国家から指定された偶然性、強制性を逆転していくという加速度性をもって運動を形成していきたい、とするのが松下の考え方だった。

 

9,実刑/執行猶予とは?

この瞬間にも実刑に服している膨大な人たちのことを、わたしたちは忘れている。一部のひと(多くはカルロス・ゴーンのような未決のひと)だけが報道され話題になるだけだ。知ることと知っていることがいかに偏差しているか知ろうとすることが、「この社会の欠損総体の重さ」に迫る方法ではあろう。

(それにしてもゴーンの長期勾留はひどすぎるだろう!)

「牢獄をふくむ体制の実践的破壊」=革命をプラスのものとして考えること自体、私も確信できなくなっている。

そうであるとしても、そうではない日常を逆転すること、「幻想性のあらゆる位相の逆バリケードを突破していく試みに、本件への敵対者が自覚的に共斗していくことが不可欠である」というヴィジョンと試みの重要性は増している。フェイクを含む幻想性の支配がいっそう進むなかそれをどう扱うか、困難があれば共に転倒していく可能性もあるはずだ。

 

9−2,〈 〉、{ }につづいて }{ という新しいカッコ

をここで、松下は使用している。

}実刑{ という形で。 かなり苦手だ。

 

10,「現段階の大学や学会、それにしがみつく人々が、一つ一つの具体性としては打倒に値いするほどの内実をもちえていないことは自明ではないか。」現在、新自由主義と反知性主義を利用しようとする反動勢力によって縮小させられてしまった(特に文系の)大学。学生の知への意欲、全体への渇仰を作り出し結合することができない大学が非力であるのは当然である。一方、大学を凌駕しうるほどの権威を僭称しようとした松下もその死後、一切の勢力を失っている。

去年くらいは、高級官僚諸氏の「自らの生きざまとたて前の、目をおおうほどのズレ~ギマン」は誰の目にも明らかになった。そうした国会〜国政の腐敗を糾弾し得ないマスコミ、諸学者のはてしないダラクも指摘しうるのだろう。

わたしたちは、消滅したかに見える、松下昇の〈不可視のバリケード〉の思想から再出発していこうと思っている。

 

11,おまけ

獄中者がパソコンなどを使える社会が来るべきだ、と松下は述べた。

2019年2月6日

家入一真

少年院や刑務所内で起業教育、プログラミング教育したいのだがどうやったら出来るのだろう

https://twitter.com/hbkr/status/1093159398912868352

2019年2月7日

えらいてんちょう(Yauchi Haruki)@著書再重版3.2万部2/9尾道マッチングバー

これはすごい。

https://twitter.com/eraitencho/status/1093474901963358208