松下昇~〈 〉闘争資料

2015-03-01

人生の難破の体験

私は若い頃吉本隆明氏の熱心なファンだったが、80-90年代以降はあまり読んでいない。

一番熱心に読んだのは、政治思想評論集などだが、ナショナリズム論とかも読み返していないな。『初期ノート』も好きだ。


吉本氏の『初期ノート』に対し熱心に註解を付けておられるブログがあり、ひさしぶりに覗いてみた。http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/


戦争中に吉本の内面を充たしていた戦争肯定に至る世界認識と、徹底抗戦とか戦争死の覚悟といった内面の覚悟性が敗戦の現実によってこなごなに砕けたわけです。それでも自殺しないかぎり吉本の肉体は生きている。つまり「強いられて」生きているとしかいいようのない体験を吉本はしています。

http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20150228


ふむ。私は幸運にも一度も挫折していない。もちろん思想的にはそれは私が俗物以外ではないことを意味すると言われるでしょう。ただ私としては学生時代に「仕事と社会をなめる」ことに決めて、その通り60過ぎまで来て退職金を貰うことができた。もちろん友人はできなかった。

いやまあそんな話をするつもりはなかった。


吉本が吉本たるゆえんはその体験(難破の体験)の内容を思想として深めたところにあります。

吉本が受動性という思想を深めるにあたって、もっとも影響を受けたのは親鸞の思想だと思います。「絶対他力」という親鸞宗教思想は受動性という概念を根源的に掘り下げたものだからです。吉本はどこかで一度やめた人というのは面白い、やめたことがない人というのはあまり面白くないんですよね、というようなことを言っていました。(同)


私は、学生時代にこの吉本氏ともうひとり実際に神戸大学懲戒免職になった松下昇氏に出会って、「真面目になれば懲戒免職されるべく運動するしかない」思想になったわけですね。「懲戒免職されるべく運動する」かどうかはともかく、仕事に対して真面目になるのは止めることに決めていた。その体験(他人の難破の体験)を、抽象化し薄めて自己のものにした、とも言えましょう。論理という薄い隙間を通してだけ世界とつきあう、みたいな。(社会を知らないエリートと呼ばれる人には必ずしも珍しい生き方でもありません。)

ただ、吉本の親鸞論とかは読んでも見たけれど、結局ピンとこなかった。それがどういうことなのかということが、この引用を読んで分かったな、と思ったのでした。


この世は仕事より高級なことも、仕事より低級なことも、そして複雑ささへ、それ以上でも以下でもないのだから。(夕ぐれと夜との独白)

これは仕事というのを「現実との関係」というふうに読みかえればいいような気がします。現実と関係し、現実を分析し、現実と格闘する。それ以上に高級なことがどこか「いと高きところ」にあると考えない。もっと高度で複雑で知的なことがあるとも考えない。すべては現実と取っ組み合うことから始まるもので、その結果できあがった観念を現実以上の高みに置くことは錯誤である。

http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20150124/1422071125

先に、引用しようと思ったのはこちらの方でした。

「その結果できあがった観念」といったものを否定することができるのか、はなはだ疑問です。

私はこの十年くらい、超越とか正義という言葉を好んで使おうとしてきました。


吉本の依拠する弱者である大衆の本音は、本来支配者のいう本音とまったく違ったものであり、前者によって後者は否定できるとするのが吉本の考えだったのでしょう。しかし、この間その構図が崩れ、生活保護叩きにさらわれる大衆が増えています。そうすると、「本音と建前」でいうと、吉本は本音主義になる、ということになります。


そういう情況への批判もあって、社会は超越とか正義というものなしに成立しない、ではその超越とか正義というものは何かといったことを、例えば儒教の成立までさかのぼって確認し再確立したいといった発想もわたしにあったかもしれません。(実際はできなかったが)

(続く)