2008-08-23わたしはいま何を提起されているのか!
■ 時の楔通信の読者の方々へ
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「時の楔通信の読者の方々へ」と題した、'86.8.1付けの〜μ〜名の紙片が、K氏作成の「書簡集・(3)」p56に、コピーされている。
それに続く、「〜8.1〜付の提起に応えて下さった〜応えつつある方々へ」という86.8.23付け松下昇名の紙片とともに。
いずれもB5のコクヨ原稿用紙1枚に枡目を無視して書かれたもの。
http://666999.info/matu/kusa/joken/konkyo1.jpg
http://666999.info/matu/kusa/joken/konkyo2.jpg
上記のとおり。読みにくいですが、松下氏特有のダイナミックな表現の雰囲気を知ってもらうためにも画像ファイルをUPしました。
(1)
このブログの78.3.30に置いた、{時の楔}レジュメ 原本〜対 を巡礼させるときに、に続くもの、である。
ここでは概念集〜{時の楔}に関するレジュメ〜時の楔通信などの各パンフの差異ではなく、共通点、それを差し出す時の、松下の身振りの特徴について考える。
上記を含む刊行リストにある各パンフには千円という値段が付いている場合もあるしない場合もあるが、それはいずれにしてもかりそめのもので、本質的にはあなたとわたしが出会う契機と位置付けられている。ある本が商品として自己を提出するのは実はどんな場合でも矛盾を含む。たかが1000円より大きなものを表現しえていない限りそれは最初から価値がないのだから。あるものを商品として買うことにより、買い手はそれを読む権利も読まない権利も獲得すると考えられてしまう。それは錯覚である。わたしたちは国家−商品化社会という存在を整除化し平板化する流れのなかにおり、表現とは第一義的にその流れに対する抵抗に他ならないからだ。
ひとつのパンフあるいは一枚のビラは、小さなものであってもなんらかの存在変容を読者にそして、呼びかける私〜読むあなた の関係にあたえるものである。そうでなければならないとされる。時の楔通信は、0-15なので16冊あるはずだが実際には、欠番がある。ある号を手にした人が自動的に次の号を入手する権利を持つと(金さえ払えば)錯覚してしまうこと、それこそが松下が闘わなければならないとしたものである。〈倒錯した日常へのなしくずし感覚の根底にある自然さ〉である。欠番及び16以降の〈中止〉はまず第一にそのことを私に問いかける意味を持つ。
{時の楔}に関するレジュメを野原は、2006年2月にUPしている。(去年の暮れかなと思っていた。)2006〜2008年の段階での〈自らの構成リスト〉、構成ビジョンを作成し表現する過程とともにUPするのでなければ意味がないわけである!
(2)
時の楔通信は、第〈0〉号 1978.11 から
第〈15〉号 1986.7 まで、8年間定期的に発行された。
改めて気づいたがこれ自体とてもすごいことである。1978年という全共闘的なものの残り香が社会の一部には色濃く残っていた時代とそれが全く消滅してしまった時代。時代の熱狂にだけ依拠した浮わついた修辞の群、全共闘的な表現のほとんどすべてがそのような偏見を確認する形で消え去っていった時代に、この通信の一貫性は瞠目すべきものである。歴史を振り返るという視点ではそうであったとしても、通信はその読者にはそれとは正反対のメッセージ(挑発)を送り続けていたのだ。
自然過程のように発行したり、うけとったりしかねない 私たちの表現過程の批判的止揚の必要。
86年8月にもそれは上のように語られた。
確かにわたくし野原燐は松下よりだいぶ年少であった。しかし思想にとって8年の時間はそのような言い逃れを許すものではないだろう。<0>号の段階と同じく<15>号の段階でもわたしは、同じ距離感において松下から通信を受け取った。松下の禁止を知っていたにもかかわらず。そしてそのような私のレベルを明確に越えた読者は残念なことに松下しか存在しなかったのだ、その結果、16号は現在まで現れていない。
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http://666999.info/matu/kusa/joken/hihyo1.jpg
http://666999.info/matu/kusa/joken/hihyo2.jpg
次に、95.6.6付けの SR氏あて手紙をもUPした。
かりにあなたが私に表現を届けうるとして
最低の条件は、これまで n年間に私(松下)から提起してきたことに
応え、実現しつつその一環ないし飛沫として伝える他ない、と
いま野原は不特定多数の読者に何かを伝えようとしているのだが、それが届きうる条件もおそらく同じであろう。野原自身松下から提起されつづけ無視しつづけてきたのだから。
刊行リストにある各種パンフを販売〜配布するにあたって、「〈読者〉にはこのレジュメのコピーと併合して渡してください。」というのは文字とおりではなくとも必須の条件として、現在も生きているものだ。
わたしはいま何を提起されているのか!