2007-10-20
■ S氏宛手紙 (案)
はじめまして。
数年前から梅田のかっぱ横町のあたりによく行くようになり、そこの梁山泊にも寄らせてもらうことが多くなりました。ペンネーム野原燐(本名)といいます。
インターネットで松下昇のテキストの紹介、販売を試みたりもしています。
関連urlを書いておきます。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/
http://from1969.g.hatena.ne.jp/
さて今回お手紙を差し上げるのは、梅田梁山泊で村尾建吉氏の『存在と言語・1』を見たからです。これは村尾氏からの直接の委託販売ですね。
この本について、わたしは許せないと考えています。もちろん村尾氏は私にとって他人であり彼の思想が私のそれと相容れなくとも、彼の出版活動を私が妨害する権利など私が持つはずもありません。
しかし下記の理由で、この本の出版〜販売行為自体を許せないとわたしは考えるものです。
この本の販売行為への加担を取り止めることを要請します。
この本の中身の八割ほどは、松下昇氏の文章です。したがって異議申し立てに耐えるためには、彼が松下の著作権を獲得してるかことが必要です。そうでなければ、著作権概念の革命的拡大解釈を村尾が主張し(とりあえずの異議申し立て者である)野原などを納得させることができればそれでもよいと思います。
この問題に付いてすでに別紙32頁にも渡るやりとりを村尾氏と交わしています。
その核心(の一つ)は次のやりとりにあるでしょう。
野原) 批判されたからといって「言葉を交わす気には毛頭なれ」ないなどとすぐに口走ってしまうようでは、なんともはや、本当には出会っていない「一九六八年」どころではありません。村尾氏はいったい言論〜思想が存在する根拠をどう捉えているのかが問われるでしょう。
村尾) 八木氏や永里氏は単なる「批判」を行っているのではない。刊行作業の息の根を止める宙吊り要請を行っているのである。いくら村尾たちの逸脱ぶりが許せないとしても、そのことを自覚してほしい。
そもそも村尾氏は何のためにこの本を出したのか?答えは下記である。
村尾) まだ本当には出会っていない「一九六八年」にむかってこちらから手を差し伸べていきたいし、まだ気づいていない多くの問題に出会うたびに、本書で報告し、問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかけるので、まだ見ぬ永遠の恋人である読者は、自らの人生を展開する必然性の度合いで、自らと本書にむかって姿を現してほしい。
「問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかける」ことがまさにこの本の目的であった。わたしの異議申し立てはまさにこの呼び掛けに真正面から応じたものである。だからして、
「1.公開。 2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。 3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。
上記の<自主ゼミ実行委員会>の原則を持った討論の場が、現実の場に設定されるべきである。
その場で、上の野原の五つの問いかけを含む批判疑問を討議することができる。公開の討論を経るまではこの本の配布は宙吊りにすべきである。公開に極限的に開かれていることを抜きに〈松下〉の表現は成立できないのだから。」という野原の結論を村尾氏は受け入れるしかない。であるのに村尾氏は現在それを拒否している。これは村尾氏自身が自己の出版目的を裏切っていることになる。それだけでなく、松下思想への裏切りを松下昇というラベルで売り付けていることになり、許すことができない。
(以上)
発信者:野原燐
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