わたしたちのグループ「(仮称)仮装被告団~刊行委員会」は、12/22に試行的に始まった。しかし、メインであるべき「松下昇~〈 〉闘争資料」が更新されないまま、noharra以外の可視的参加者もなく沈滞していくのではないかとの危惧が生まれていた。〈わたしたち〉として自己生成していく契機を見いだせないまま、言語遊技という日常に回帰していくのか、と。
そこに突然、昨日(1/13)、eili252さんが「〈参加〉について」という文章で参加された。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/eili252/20060113
2001年7月ごろ(あるいはもっと前)から始めたネット上での〈松下昇への接近〉活動は、野原燐のブログ活動の一部として細々と継続してきた。その活動に対し、可視的に(ネット上に)初めて〈対等な参加者〉が登場した。このことは私にとってこの上なく大きな喜びである。
<普遍性に向かうどのような言葉も関係の現実的な場面においてしか甦らない>
しかしながら、eili252さんは上記のように言う。
言葉によって編まれた幻想性と権力関係によって自己の深部まで侵された〈わたし〉は、にもかかわらず/そうであるからこそ、「生活過程の引き寄せた或る言葉が世界に拮抗し衝突せざるを得ない瞬間を自覚することがある。」
ネット上の容易にコピー可能な文字列たちは、eili252さんが語るこのような〈言葉〉のヴィジョンから遠い。
したがってeili252さんの〈参加〉はそれ自体が、矛盾であると同時に矛盾の力強い乗り越えである。
アルゴーノウトのようなわたしたちは、船が岸から離れ始めるのをぼんやり感じている。