☆2 松下にとってパンフ類の配布はそれが委託販売に近い形態をとった場合でもなにより「配布過程を逆行して、表現生成の現場へ共に出かける呼びかけ」としてあった。
〈表現生成の現場へ〉というのがどこなのか、野原はいま分からない。しかし、松下が教えるところは、われわれはすでに知っているのに忘れたふりをしていることに取り囲まれているということである。
さて村尾氏宛前2回の手紙は間違っていなかった。しかし力をもたなかったとすればそれは「自他の存在条件を変換しつつ行うことにより、はじめて言葉に生命をもたらしうる」という奇跡をうみだすことができなかったと言うことだろう。
「存在条件」という松下のジャルゴンに対し、村尾氏の〈定年退職〉というありふれたサンプルを解釈として提示したことは、野原の寄与だと言っておきたい。
「お金がなければわれわれは一日も暮らせません。」という自明性の上でわたしたちの社会は存在している。しかし幼児や寝たきり老人はお金を使うことなく日々暮らしている。誰でも長くて80年ほどの人生であるとすればその始めと終わりは実は究極的マイナー存在である。問題は常にマイノリティを切り捨てることにより問題として設定可能なものになるのだがそれに反発し、見えていない(未だ存在していない)マイノリティを権利として参加させることを求めたのが松下の運動論である。
〈定年退職〉は、見えないものが見え始めるもっともありふれた契機だ。
あなたが妻を持っている場合、自然に家事を妻にやってもらっていることがある。この家事を〈家事労働〉と捉え返すこと、ここにも〈定年退職〉と同じ(あえて同じと書くが)広大な切断面がある。
〈 〉に対する指摘の仕方が、松下に比してスタティックだと批判を受けるだろう。そうかもしれない。