二つの反日処刑


 千二百年をはさむ二つの時間に出現する処刑について考えてみたい。現在の東アジア反日武装戦線の闘争に対して、日本国家は、死刑(大道寺、益永、大森)無期(黒川)を含む重罪判決を出している。このうち、大森氏は実行者であることを否定してアリバイを主張し、かつ上告中であるから、正確には処刑の概念として論じえない面はあるけれども、むしろ、かれを巡るテーマこそが、千二百年前の処刑に深くかかわっており、かれ自身も北海道庁爆破(七六年三月二日)事件の一審の最終意見陳述に補足する文書(八○年十二月二日付)の中でこの処刑にふれているので、それを他の資料で補充しつつ、次のように再構成し、私が現在とりくんでいるテーマとの関係を〈陳述〉してみる。

 八世紀の天皇制、律令制は危機に陥り、大和の中央集権国家は、矛盾の転化を意図して辺境=異国としての現在の東北地方への侵略戦争を本格化していく。長い縄文文明~原始共産制の基礎の上に生きてきた〈原住民〉は、激しく抵抗し、天皇制国家の記録(例…続日本紀)においても、七八一年、七八九年には、それぞれ五万以上の侵略軍を敗北させている。大和朝廷内部での混乱~指導権争いの中から登場した百済系の桓武天皇は、平城京から長岡京、さらに平安京へと管理機能の集中をめざして移転しつつ、坂上田村麻呂を指揮者として七九四年と、さらに征夷大将軍として八○一年に軍隊を派遣した。この軍隊には律令制の圧迫から逃亡し、とらえられた人々が参加していたことや、利益の約束と脅迫により原住民系の人々が少なくとも中立をしいられたことに注目したい。抵抗する側の指導者の阿弖流為(アテルイ。正確にはアトロイATOROI)と母礼(モレ。正確にはモラィMORAY)は、よく戦ったが人数と物量の差もあり孤立し、ついに田村麻呂の要請を容れて和平に応じ、京へ連行された。

 朝廷の多数派は、二人を根拠地へもどすのは虎を野に放つようなものであるとして、田村麻呂らの懇願を押し切って延暦二一年(西暦八〇二年)八月十三日に斬首した。処刑地は河内国杜山とされているが、最終的確定はなされていない。現在の大阪府枚方市牧野公園の中にある通称首塚がそうであるという説、同市内の通称鬼塚が誤って王仁を記念する公園とされているという説、杜山を宇山とする記録もあり、それに対応する同市内の場所は住宅地区になっており調査できないという説、桓武天皇が中国の陰陽道にもとづく天壇を築いたという同市内の杉ヶ本神社であるという説などがある。

 どこで処刑されたかという調査~研究は必要であるし、関心をもつ人の増加はのぞましいけれども、冒頭でのべた処刑の切迫との関連において把握していくのでない限り、風変わりな史跡巡りの一つになりかねない。大学の研究者や、作家、教育委員会などの、このテーマヘの接近は、あるとしても批評が容易である。容易でないのは、むしろアイヌ系を自称する人に対する批評である。私が出会い、一緒に現地を歩いたC氏は、すぐれた視点と多くの資料によってアイヌを軸とする歴史を研究し、手書きの機関紙からは示唆をうけてきたけれども、次第に対立点があきらかになった。

 きっかけは、前記の機関紙の、処刑~埋葬地の不確定性に関連する「日本人がアトロイやモラィを埋葬するはずがない。」という箇所(a)と、「今の日本人が殺したのではないから、反省の碑でもあれば、そこを新しい墓としてもいい。」という箇所(b)への私の批評である。(資料配布可能)

 私は、この記述が出てくる情念は了解しうるが、(a)については、〈日本人〉を九世紀冒頭の段階と現在の(国家や民族の形成過程にかかわる)差異にふれずに同一視するのは誤りであり、また出自に関係ない民衆が秘かに埋葬したか少なくともいい伝えてきた可能性を指摘した。(b)については、私を含めて今の日本人は日々刻々〈アトロイやモラィ〉を殺しているという把握こそが重要であり、安易な反省は問題の秩序化を補完するのではないかと主張した。しかし、その後も機関紙に再び同じ記述が出てきたので、私は、双方の立場を、より広い場で対象化するために、

①民族性レベルを超える本質性としての〈アイヌ〉(文明論的転倒作業の過程で未ないし非国家へ生きようとする人間)にとって、このテーマがどうみえるか。
②現在の〈反日〉闘争(一六六九年のシャクシャインの蜂起に参加して処刑された〈日本人〉たちを超える質をもつ。)への死刑判決との関連で、どのような意味をもつか。
③第二次世界大戦中に秋田の花岡鉱山へ強制連行され反乱を理由に虐殺された中国人、広島の原爆で死亡し遺骨が来発掘の人々の問題をも視野に入れるべきではないか。
という諸点を討論の座標系として提起した。勿論、概念集1の〈反日〉の項目を深化させるためにも、よい機会だと判断しつつ。

 しかし、残念なことに、C氏は、この提起の位相を理解しえず、自分の固定観念を変える、少なくとも別の視線にさらす度量を示していない。のみならず、私への返信で、独創的な反日論を展開しつつ死刑判決と戦っている大森氏を実行者とみなした上で「とんまな日本人」と嘲笑し、「爆弾を使うのは卑怯な日本人らしい。」と放言している。これは裁判過程の階級性やマスコミの爆弾=卑怯論を止揚 しえない発想であり、パリ・コンミューンについて熱烈に講義しながら同時期の大学闘争には敵対した神戸大学のK教授をさえ連想させる。とはいえ、本来の問題は①~②~③を媒介するテーマを、いくつかの〈時間への攻撃〉の試み(具体例は直接のべる。)と共闘しつつ深めていくことであり、この意欲を与えてくれたことや、私たちが自己にとって重要とみなすテーマにかかわる場合に陥りかねない独善性への自戒の契機をつくってくれたことに対しては、C氏に率直に感謝したい。

   松下 昇
         (概念集 4   ~1991・1~ p8~より)
          参照 概念集目次