概念集・8

    (表現過程としての医療空間)
                〜1992・11〜
                                刊行委員会気付 松下 昇
                                (web掲載  刊行委員会気付 野原 燐 2008.3.09)





  表現過 程としての医療空間

          (序文の位相で)

 一九八四年十二月から翌年四月まで東京〜大 阪で監置〜勾留された体験をへて、私は時
の楔通信の第〈n〉号と第〈13〉号に〈表現 過程としての被拘束空間〉を掲載したが、表
記のタイトル、というより表現のヴィジョンは 一九九二年六月から八月の入院〜手術の過
程に対応している。〈表現過程としての被拘束 空間〉の冒頭では、このタイトルを必然と
するヴィジョンの渦の焦点、その意味について (1)体験の具体例を表現の視点から把握する
意図の他に、(2)被拘束空間自体が自分の取 り組んできたテーマ群の再把握を迫る表現位相
をもつ、と指摘している。これを今回の入院〜 手術の過程で応用すると、(1)医療空間での
体験の具体例を表現の視点から把握し、(2) 医療空間自体が自分の取り組んできたテーマ群
の再把握を迫る表現位相をもつ意味を明らかに していく作業の必然を示している。
 しかし、たんなる平行移動的な応用にしては ならないという感覚が殺到してくるので、
それを(3)として記述してみると、α―過去 形の体験や試みと対比して現在形の体験の試み
に応用するのではなく、双方を未来形で包括し つつ、β―〈表現としての〜空間〉という
場合の〜の部分を被拘束空間や医療空間での体 験を超える任意のものへ拡大し、γ―私だ
けでなく、任意の主体が応用し深化させる媒介 にしたい、ということである。これをどの
程度まで実現しえているかは全く心もとないけ れども、今後もこの方向への模索を持続し
ていく契機をつくっているとは感じており、読 者の方々のご意見、提起を期待している。
註―六月の中旬に、痛みはあまりないものの、 鈍い疲労が全身を浸し、見知らぬ街をよろ
 めき歩く自分の全身が秋のイチョウの落葉の ように黄色に染まっているのにふと気付い
 た。救急車で連び込まれた病院で、医師は、 胆嚢や関連器官が激しい炎症を起こしてお
 り、このまま放置すれば六月中に脳障害で死 亡ずる可能性があった、と語った。その後
 も検査〜手術の過程で何度か〈死〉の危険が あったらしいが、いずれの場合にも私には
 同時的な自覚はなく、むしろ自分の表現して きたものの中へ潜り込んで読みなおしたり
 書き続けたりしていた。無意識に、また超高 速度で…。これは、このパンフレットを作
 成している時についてもいえる。ただし、意 識的に、ゆるやかに…。この意味からは、
 この号はたんに概念集7の次の8というより は、自分の表現群、とくに入院直前まで構
 想していた概念集7の次のいくつかの表現の 変換形態として把握するのが正確である。
 このことを的確に示すパンフレットの題名を 思いつかないまま、とりあえず表紙には概
 念集8と記し、副題としてこのぺージの序文 のタイトルを併合した。意図を読み取って
 いただければ幸いである。

〜一九九二年十一月〜                 松下 昇



        医療方法と身体感覚


 現在の病院の医療過程では当然のこととされ ている処置も、未経験の患者にとっては、
驚きと怖れの対象である。この驚きと怖れを恥 じたり隠したりしないで、それを失わずに
冷静に感覚し続けることが基本的に重要である と考える。この態度は病院でのみならず、
さまざまの施設や環境に入る場合に必要であろ う。
 私は緊急の入院をしたから、入院するかどう か、どの病院へ入るかについては殆ど選択
の余地がなかった。結果的には緊急に行ける優 れた病院に人ったことになるが、それは後
で少しずつ判ってきたことで、初めは不安で あった。しかし、多くの人が入り、医療を受
ける場所で共通の体験をしつつ何かを発見しよ うという期待はあった。
 医師や看護婦は親切であったが、その親切さ とは別の次元でまず感じた異和は、ある視
点からの、と限定してもよいが、医療方法のア ンバランスさであった。
 日常的な動作、何えば苦痛を伴わないレベル での食べる、飲む、吸う、塗る、巻く、は
さむというような動作以上のことを患者にさせ たり、患者の身体に加えるのは、医療の未
発達を示しているのではないだろうか。子ども や動物が不安を感じる動作を必要とする段
階は医寮の未発達を示しているといってよい気 がする。           に関連す
る薬品や器具などの効果や回数についての問題 が同時にあるわけだが、今は身体感覚につ
いてさらに考えていく。
 具体的な医療(とくにメスを用いる手術)は 勿論として、入院後に一般的・形式的にお
こなわれる検査を例にとってみた場合、レント ゲン撮影、超音波検査(腹部エコー)、C
Tスキャン(立体的断面撮影)などは苦痛を与 えないのに比較して、注射、胃カメラ、動
脈造影剤注入などは、原始的かつ物理的な(そ れ故に心理的にも)苦痛をもたらし、前者
とのズレの大きさに愕然とさせる。このズレを 自明とする医療(者)は一応うたがってみ
る必要がある。しかも、前者は原始的かつ物理 的な苦痛を与えないからよいとストレート
にはいえない。X緑の放射を大量に浴びるのは 危険であるし、超音波装置は戦争技術(海
中での敵の潜水艦の発見など)の応用である。 レーザー光線も医療に応用する以前に敵を
破壊するために研究〜関発されてきたのであ り、このような背景にも注目したい。また医
療機器の高価さ自体も医療の未発達性と非日常 性の証といえるし、経済的利益をめぐる取
引の素材になりうる。
 体温、血圧などを任意の人が任意の場所で測 定するような気軽さで様々の検査や手術を
含む医療が可能になるような段階を目指すに は、何をどのように変えていく必要があるの
か。少なくとも自分や社会の運命を感覚の徴妙 な差異に至るまで自分で決めていこうとす
る態度と、その態度を持続〜発展させうる方法 の具体化が不可欠であろう。また、医療の
テーマを他の任意のテーマと関連させて把握す ることを快いとする感覚(自分だけでなく
他者や他生命についても)が基底になければな らないであろう。

  胆石・肝・胆汁など  デ カルト「情念論」から

 このような考察の過程で、医療方法と身体を 媒介する言語につ いて、しばしば考えるこ
とを迫られた。というのも、病院内外の大多数 の人々にとって、病院に入った以上は、こ
れまでの医療技術に任せて、患者は黙って従っ ていればよいという言語把握が無意識の中
に前提されていることに気づいたからである。 また、意識的にそうではない態度をとろう
としても、医療技術のメカニズムや流れに対す る圧倒的な無力感(治療してもらう感謝を
含む。)がある。しかし、このような言語の把 握が不充分であることは私にとって直観さ
れていたので、その後の入院生活で次のような 試みをしてみた。箇条書きにすると、
(1)身体の状態を伝える、つまり言語を意思 伝達の手段として用いる場合には、聞き手であ
 る医師や看護婦の言語でいいかえるとどのよ うな表現になるのか常に確認する。
(2)医療技術の方法や処置の流れ自体は非言 語的にではなく、むしろ極めて言語的に規定さ
 れ具体化してくるのであるから、その場合の 言語性に注意し、意見を提起する。
(3)言語を自分の身体感覚の変換をもたらす 自己暗示の媒介として応用する。

(3)については私の実験例を記す方が理解し やすいであろう。私は注射さえも嫌いな人間だ
が、ひんぱんな注射や、まして胃カメラや造影 剤カテーテルやメスに出会わざるを得ない
条件の中で((1)、(2)の実践により了解 し、かつ同じ処置を受けて来ている無数の人々との
共通感覚を潜るために拒否しなかったのである が…)、注射針は〈放射される水の線〉、
胃カメラや造影剤カテーテルは〈立体映像〉、 メスは(麻酔中に触れる)〈風の断面〉で
あると想定することによって、不安や苦痛をか なり超えることができた。不安や苦痛から
遠ざかる、というよりも、幻想の武器を新たな 領域で実験していくためにこのような想定
をしたのであり、今後も様々の場で深化〜具体 化させていきたい。

 いま、医療方法と身体を媒介する言語につい て考えている過程で浮かんできた記憶があ
る。私が84年から85年にかけての冬を監獄 で過ごしてした時、隣の雑居房に動物医が海外
から研究用と称して持ち帰った動物の剥製の中 に麻薬を隠しているのを税関で発見されて
勾留されていた。かれは看守や同房の者たちに 「犬猫センセイ」とからかわれながらもじ
っと耐えていたが、ある時ひとりごと風にこう いった。
 「あんたらは犬猫センセイってバカにするけ どな、動物相手の医者の方がむずかしいん
だぜ。ヒト相手の時は、ここが痛いとか、こう してくれとか言葉でいえるだろう。動物は
言棄でいえない分を医者が想像して治すんだか ら。」
 かれの言棄は、言葉を持てない、応用する条 件を奪われている全ての生き物(ヒトを含
む。)の医療、さらに生存条件のレベルで聞き 取る時、大きい示唆を与えてくれる。ここ
では詳細を省くが、その動物医が法を犯して麻 薬を持ち込んだ理由の中心には、かれがヒ
トよりも動物の生存を重視し実行してきた経過 があり、医師免許を剥奪され実刑を受けて
も出所後に同じことをやる、と私にだけ語って いた。



    病 院と他の空間の比較


 まず最初にやってくる医療空間の特性は、 (1)内的感覚の苦痛とそれに対する技術的制御
と治療の場であること。(2)患者の生理のみ ならず生活史の関係の総体が問われる場である
こと。(3)つよい自立(自律)性を帯びてい る場であること、と要約しうる。
 (1)については前項で基本をのべた。次項 でさらに具体的にのべる。ここでは三つの特性
を要約しながら類似性を痛感した監獄(ないし 裁判所)との比較を試みよう。
 入院に至らない段階の診察や検査は監獄より も裁判所に似ており、裁判所が(1)罪とされ
る行為の自覚の度合や法律的判断・制御をおこ なう。(2)被告人の生活史の関係の総体を問
う。(3)司法権の独立性をもっている、とい う点に着目すれば納得できるであろう。しかし
類似点は法律という幻想性のレベルについて成 り立っているものの、生理〜身体のレベル
ではむしろ遠い対極にある。(そして、遠い対 極にある共同幻想性として、医療に関する
法的な支配力を持っていることも忘れてはなら ない。)
 入院を必要とする段階では生理〜身体への拘 束力・保護力は強大であり、法律的な支配
力さえも一時的には拒否しうる。(政治家など が政治的に入院する場合は拘束力よりも保
護力をアテにしているようであるが…)また、 医療関係者は患者から職業上知りえた秘密
の証言も拒否できる。しかし、これらの「拒 否」は、それ自体が法的に承認されている範
囲内のものであり、私の意図しているのは、法 的な承認の有無にかかわらず存在している
拘束力・保護力のレベルでの監獄との類似性と 相違点を明らかにしつつ、それぞれの変革
の方法を探ることである。
 類似点として、病院も監獄も(1)社会的に 正常とされる状態からの悪い方向への逸脱を訂
正しようとする判断と処置を執行する。看護婦 と看守の勤務体制と緊急性。(2)生活史の極
限的な具体化として症状や罪状があることを示 唆する。面会や通信の有無や内容が生活史
の視えにくかった関係を視やすくする。(3) 敷地の外との交通なしに24時間の活動を長期間
にわたって持続しうる。監獄の中にも病院(病 棟)があり、(特に精神科の)病院の中に
も監獄(鉄格子)がある。
 相違点として、(1)病院の職員は患者と協 力して症状を治療しようとするが、監獄では逆
である。(2)監獄は国家のみが設置〜連営し うるが、病院は個々の資本ないし協同組合など
の共同体も設置〜運営できる。(3)病院での 医療行為の基本は文明論的な変換の後に全ての
初級教育に取り入れるべき本質をもつが、監獄 の業務についてはそうではない。
 類似点も相違点も、この他に多くあるが、と りあえず前記の諸点からだけでも、それぞ
れの現状の変革を考える場合の素材になりうる であろう。個々の、また包括的な変革プラ
ンは別の項目群で提起するつもりであるが、こ の項目の最後で示唆しておきたいのは、病
院も監獄も家庭や学校との関連でイメージすべ きこと、従って69年以後の情況把握の視点
から論じる必要のあることである。


  医療におけるスパゲッティ状況


       チューブ状の身体


 人間の、いや生物の身体はチューブ状に存在 しているのではないか、という感慨が入院
後しばらくして訪れてきた。このぺージ右に ワープロで原始的な図を描いてみたが、未経
験の人の恐怖感を増幅させないために急いで註 をつけると、いきなりこれら全てのチュー
ブが突き刺さってくるわけではない。検査や手 術の段階ごとに身体に交差した主要なもの
をまとめて描くとこうなるということである。 また、鼻や尿道からのチューブは全身麻酔
中に入れたので、入れる過程での苦痛はなかっ た。しかし、それにしてもできれば再び体
験したくないものばかりである。医療空間にお いては患者は絶対的な弱者であり、さまざ
まの苦しい検査や処置に対して患者たちは黙っ て耐えているようだが、これは原則的な誤
りであると痛感する。どのような処置がなぜ必 要かを、事前に同じ処置を体験した別の患
者や、別の医療機関の第三者を含む公関の場で 患者に説明し了解をえて開始し、開始後も
患者の意志で中止できるような原則を確立すべ きではないか。そして、できれば、身体の
構造や医療方法の全体のヴィジョンについて恒 常的な討論と実習の場が病院だけでなく、
人間の生存する様々の場所、とりわけ初級教育 施設に作られていることが望ましい。
 ところで、医療方法にチューブが多用される のは、身体が様々のチューブから成り立っ
ていることに対応するであろう。血管は勿論、 いくつもの分泌液を運ぶのもチューブ状の
器官であり、口からの消化・排泄器官、鼻から の呼吸器官もチューブ状をしている。神経
や筋肉の系列は厳密にはチューブ状とはいえな いかも知れないが、かりに身体をロボット
として構成してみる場合には、内部はチューブ で埋めつくされてしまうのではないか。
 しかし、私たちが感覚を解放して生きている 時には身体の内部をチューブの集合体とし
ては意識していない。世界の総体をチューブ状 に把握する瞬間はあるにしても…。このこ
とは、身体がチューブ状に構成されているから 医療方法もチューブ状にならざるを得ない
という発想を超えていく方向を暗示しているの ではないか。身体自身がつねにくり返して
いる動作(例えば、吸う、飲む…)のレベルを 医療の基本とし、それでは困難な場合にも
光、昔、存在的な波動(現代の医学が認識〜応 用しえていないテーマの一つ)による方向
を。注射針にしても、耐えがたいほどの苦痛を 与えないとしても、鋭いチューブとしての
針を浸透圧原理にさえ変換させえない間は本当 の医療とはいえないであろう。
 当分の間チューブ的な医療方法とつき合うの を余儀なくされるとしても、それに関わる
医療担当者の配慮が大きい違いをもたらす例を あげておこう。私の腕の静脈は細いために
何度もチューブの先の注射針を入れるのに失敗 することがあり、ある看護婦さんはいきな
り手でピシャピシャたたいて血管を浮き上がら せてから黙って針を刺したが、別の看護婦
さんは温かいタオルで腕を包んで血管を拡げて から「チクッとしますが…」といいながら
針を刺した。前者は処置の後すぐに立ち去った が、後者は点滴液の流れ方をしばらく確認
し速度を調節してから立ち去った。後者は私が ある種の点滴液は成分のせいか血管に痛み
を感じさせる、というと医師の巡回時間まで針 を抜いて中止し、医師が来た時にも、口か
ら食べる方が体力がつく、点滴は不要ではない かという私の発言に共闘してくれた。この
れいはかりに過渡的な医療方法に依拠すること をしいられる段階においても、方法や患者
の位置への配慮によって事態がずっと耐えやす くなることを示している。
 もう少し切実な体験もあった。私は苦痛に耐 えつつ脇腹に孔を開けて胆嚢へチューブを
入れられていたが、入れ方の技術的失敗のため か必要以上に長いチューブが入り、それが
他の内臓にからみついてかなり圧迫感を与えて いた。しかし、それは後で判ったことで私
は原因が判らないまま、こんなものかとがまん し続け、この状態は次の段階の主治医が発
見するまで十日間も放置された。からみついた チューブを除去し、新しいチューブを入れ
直すという本来は不要な苦痛を越えて、やっと チューブは「正常な状態」に戻った。最初
の医師は、もう一つの失敗をしている。チュー ブには胆汁液の流出を止める栓がついてい
るが、別の病院へ検査のために移動する数日前 に栓をして残りのチューブを切ってしまっ
た。この処置は胆汁液の流出量が大きいことを 考えると適切ではないという私の不安は的
中し、もともと胆石で胆管をふさがれて十二指 腸の方へ流れていなかった胆汁液が体内に
充満して夜中に激痛をもたらした。当直医がき てくれたが、カルテを取り寄せて調べるの
に時間がかかり、事態をよく把握している看護 婦さんの助言でやっとチューブの栓を開い
てくれたので苦痛はすぐにおさまった。前の方 の失敗はチューブを入れながらレントゲン
ないしCTの撮影で確認しておけば防げたはず であるし、後の方の失敗は日程の調整を内
臓の調整より優先させたために生じたもので、 技術的という以前の反省が必要であろう。
 関連して疑問に思うことは、このような経過 を全てカルテに記録したり、次の担当医に
引継ぎ伝達することが殆どなく、まして患者や 関心をもつ人には開示しないという慣例?
である。私の場合には前記の医師を含めて三人 の主治医(入院期間の全体としては五人)
に接し、前記の後の二人の主治医はかなりよく 話にも応じてくれ、すぐれた技術と発想を
もっていたが、それでも前任者の医療処置の全 体についての記録の伝達を受けていず、あ
る程度の伝達を口頭で受けていても文書に記録 するのは避けているようであった。勿論、
私のケースは、よくあるささいなミスであろう が、だからこそ記録〜伝達〜開示の原則を
この程度のミスについて立しておかない限り、 より大きいミスを防ぎ、患者の信頼を
得ることはできないであろう。

 胆嚢へのチューブは切除の手術をはさむ二カ 月間近く入っており、容器にたまる胆汁は
数時間ごとに看護婦さんが別の容器に入れて量 や質の検査のために持ち去ったが、この場
合の量や質の変化は体温や血圧の検査の場合と 同様に患者は直接に確認しやすいから、患
者も医療過程に参加しているという充実感があ る。患者が直接に確認しにくい検査結果
(例えば血液成分表、録影フィルムなど)も直 後に回覧し、要望があればコピーして渡す
ようにしてはどうだろうか。裁判記録でさえ (あえてさえという。)当事者に閲覧させ、
要望があればコピーして渡すことを認めている のだから。医療過程における患者自身によ
る検査確認は身体性の領域における主体的な時 間との格闘のためにも不可欠である。ガン
や死亡時期などの告知の問題もあるが、全て開 示していくのが基本であろう。それにガン
は怖れるべき概念ではないし(11ぺージ参照)、死亡時期を告知されて驚くのは国家を含
む多くの擬制にまかせた方がよい。残念ながら 殆ど驚かせていないが…。
註1-「神様が人間の身体を作る時に詰まりや すい管を残しているのは失敗ではないか」
 医師と患者のそれぞれが別の機会にこう呟い た時のかれらへの親愛感は強烈である。チ
 ューブを超える医療方法の追求と共に、ま た、詰まりやすい状態をもたらす生活(とく
 に食生活)の文明論的な変換の追求と共に、 このような〈神様の領域〉への原初的な呟
 きが身体や医療を考察する際に不可欠である と考える。
註2-胆汁をためておく容器はヒモをつけてあ り、いつもベッドの柵に結びつけて容器を
 外側に垂らしておくが、身体が回復して歩け るようになると、ヒモを肩にかけ容器を水
 筒のようにぶら下げて移動した。屋上へタバ コを吸いに出かける時などは、遠足に行く
 ような気分であった。次第に自分の身体の一 部であるような愛着さえ生じてきて、二ヵ
 月後に抜く時には臍の緒を切るのはこんな感 じかという思いさえあった。この胎児的感
 覚から、あと二つ付け加えると、一つは手術 台に乗せられ、手術が姶まる前に患者に対
 してなされる最初の指示は、一左横向きに寝 て、お腹の中の赤ちゃんのようにひざを抱
 いて丸くなって下さい。」である。この姿勢 をとると、背骨に麻酔注射用の針を刺しこ
 みやすいのだということは説明されなかった が意識のどこかで納得していた。この状態
 から手術自体の拒否を意志表示しても、それ に関わりなく手術は進行するだろうが、こ
 の不可避性と対決する作業を〈生まれた〉後 でかならず作業範囲に加えようという納得
 と共に…。
  もう一つの胎児的感覚からの連想は、胎児 が誕生直後に示す黄疸の症状との対比であ
 る。この症状は私の入院の契機となった黄疸 とは原因は異なるであろうが、ある比喩的
 な共通性を直観していた。私の生き方の変換 を告げる症状として、その際の何かのバラ
 ンスの変調として黄疸の症状があったのかも 知れない、と。私の入院を聞いて、私が死
 ねば20世紀が終るとさえショックを受けた 人がいたようだが、生き延びて退院した私は
 一足先に21世紀へワープ的に誕生している ともいえる。そうであるように生き、表現し
 続けたい。六〜八月の私の入院期間に死去し た人々(新聞記事にはならなかったが、同
 じ病院でも顔見知りの患者が二人死亡し た。)の分まで…。


  医療におけるスパゲッティ状況

    手 術=さめたあとの夢


 「私にとって、詩の体験はいつもさめたあと の夢ににている。」と書いたのは吉本隆明
であった(『詩とはなにか』61年7月)が、 手術開始後の全身麻酔からさめた深夜のベッ
ドの上で、この一行が浮かんだ。三時間ほどの 予定が手術範囲の拡大や困難さの増大によ
って七時間半になり、それでも何とか終了した という報告を聞きながら…。
 私が手術台に上がった時の胎児感覚について は7ぺージに記したが、その続きをここで
記すと、この〈胎児〉は宇宙飛行士のように酸 素マスクを鼻と口にかぶせられ、酸素に混
じっている麻酔薬のために三十秒位で意識を 失った。手術前には、内部の宇宙へ出立する
つもりでいたし、旧約聖書のヨナが飲み込まれ 失神したまま数日を過ごした大魚の腹の中
にいた間の〈信仰〉を想像していたし、手術中 の無意識状態で自分の生涯や表現の軌跡が
どのように視えるか確かめようというプランを もっていたのだが、手術中の時間との対応
での記憶はない。ただし、麻酔が切れてから身 体を浸してくる痛みと平行して、また、星
の光が時間差を伴って地上に届く感覚で、うっ すらと切れぎれにではあるが、いくつかの
ヴィジョンと出会うことができている。先述の 一行との関連でいえぱ、手術中の私の出会
った夢のようなものが私にとっての〈詩〉であ るといえるのかも知れない。
 断片的に記すと、光の届かない、凍えた辺境 の星に負傷したまま不時着している、しつ
つあったという記憶、ないし記憶の影がある。 接近しつつあった星の印象は、手術前に超
音波で確認した内臓のイメージ(このぺージ右 参照)に基づくであろう。一方、自分の生
涯や表現の軌跡についての把握は固有性として は殆ど不可能であったといってよい。微か
な歌声ないし波動のようなものを救命綱のよう に握っていた感触と、いろいろな人が潜っ
てきた集合的無意識の原形質の味わいが〈信 仰〉というレベルと異質なところであったよ
うな気がする。ヨナが飲み込まれた大魚の腹と いうのは私の場合には金属製の厳めしい医
療機器ないし機構であるが、それにもかかわら ず、いやそれ故に前記の感触や味わいは貴
重であり、持続・共有していきたい。
 表現の軌跡についての把握は固有性としては 殆ど不可能であった、と記したが、不可能
をしいた位置に対応する姿勢をとりながら現在 の作業の一環として概念集シリーズを読み
返してみると次のことは確実にいえると考えて いる。
 (1)各号には、潜在的ではあるが、タイト ルや記述内容から遠く飛翔しつつも、身体や医
療の領域のテーマにおいても展開しうる契機に いくつか踏み込んでおり(例として概念集
2の〈技術〉、3の〈韻律〉の註、4の〈夢 屑〉の註など)、これと同じ関係は今後も思
いがけない条件やテーマと私が取り組む場合に もありうる、と私をはげましてくれる。
 (2)各号は、次の号への方向や構成につい て必死の模索をして次号を具体化しているが、
手術中の〈詩〉を潜った眼で読み直しても、こ れ以上の具体化はできないだろうし、全く
別の眼をもつ視点からしか総体は判断〜応用で きないだろう、という集合的無意識を主語
とする場合の〈自信〉を得た。

内 部の宇宙/外部の宇宙

 ところで、かなり回復してから読んだ医療解 説書には、手術を可能にする条件として、
麻酔(無痛)と消毒(殺菌)と輸液(輸血)の 三つが挙げられ、西洋医学では前の二つは
19世紀中頃、三つ目は20世紀に入ってやっ と一般化したと記されていたので、それらが手
術中の〈詩〉に対してどのような対応関係と影 響をもつのかを考えた。対応関係として、
まずいえるのは、この三つは手術をおこなう過 程での条件の進歩であり、手術を受ける者
の不安の質は不変であろうということである。 勿論、その不安のままにみる〈夢〉の基盤
は条件の進歩によって支えられ、安全になり、 何よりも苦痛を緩和されているのではある
が…。そして次にいうべきことは、そうである として、〈夢〉をみる側は進歩した条件の
基盤を含めて〈夢〉に見ない限り、見たといえ ない、見ることが許されないのではないか
ということであり、いいかえると、麻酔や消毒 や輸血なしに手術を受け、死と直面した人
や動物の苦痛を癒す〈夢〉、それを現実化する 方法は何かということである。
 〈詩〉を現実で書くことは、この深さに対応 する不可避性を潜らない限り、世界を支え
る根拠を持ちえないのではないか。それは同時 に、〈詩〉を現実で書く場合に麻酔や消毒
や輸血に相当するものに支えられている関係を どのように自覚し、作り出し、変革してい
くかという課題に立ち向かうことを不可避とす る。

 多くの人が無意識のままに書いている表現に ついて最後に記すと、患者は手術の前日位
に〈手術承諾書〉というものを書かされる。様 式は病院によっていくらか異なり、手術の
結果がどうなっても文句をいいません、という ような権力的な書式で書かせる病院もある
ようだが、減少してきているらしい。(厳密な 確認はしていないので、読者の体験や情報
を聞きたい。)私の場合は、胆嚢と胆管にある 二個の結石を切開によって取り出すこと、
関連して必要な処置を受けることを了承しま す、という趣旨の書式が印刷されており、そ
れに署名と捺印をした。手術を受ける人が全て 無意識の詩人であるとずれば、この〈手術
承諾書〉は患者の書く〈詩〉の序ともいえる が、その外在性からも、法廷での証言前の宣
誓書に比べての受動性からも、詩から最も遠い 表現である。より個性的な手術へ臨む表現
を(遺書との関連においても)可能にしてもよ いのではないだろうか。緊急手術のために
無意識状態で連びこまれた人や、意識はしっか りしていても思想的・宗教的な理由から目
の前の医療方法を拒否する人の場合には〈手術 承諾書〉は書かれないまま手術が開始され
たり中止〜延期されたりするのであろうが、こ の場合の方が患者の〈詩〉の根拠は深いは
ずである。私は法廷で何度か証言してきた場合 のように仮装的に〈手術承諾書〉を書いて
おいたが、その外在性や受動性を全ての患者と 共に転倒していくためにも、この項で論じ
てきた問題を今後も追求し続けたい。

註―〈手術承諾書〉の他に、カルテや診断書や 医療点数表も、患者が対等の立場で作成し
 ていくのが原則となるべきであろう。関連す る〈新しい医療のヴィジョン〉の項を参照
 し、意見をとどけていただきたい。


腹 腔鏡による手術

      〈わるいもの〉概念の変換


 入院直後から私の検査桔果について「何かわ るいものがある(かも知れない)」という
発語が主治医の口からもれた。わるいものとは 何ですか、という私の問いに対しては「胆
嚢の腫れの他に周辺の炎症がひどく、何がわる さをしているかが判らない。」という応答
しかなく、同系列の他の病院へ移して検査され ることになった。(胆嚢の周辺の器官であ
る膵臓や肝臓のガンの疑いが持たれていたので あろう。)次の病院で別の医師と機器によ
る検査で、卵形の二個の結石が胆嚢と胆管に詰 まり、ちょうどタオルの中に少し距離を置
いて二個の石をくるみ、端と端を手で持ってナ ワ跳びのナワのように揺らすと次第に石の
重さでタオルがねじれていくように、長期間に わたって形成されてくる結石をかかえたま
ま身体を動かしていると、胆嚢と胆管が二個の 石の重さでねじり合わされ、その複雑な状
態がこれまでの検査方法では判別困難な影に見 えていたのだということが判ってきた。こ
のような確認をへて、前の病院へもどり、内科 から外科へまわされつつ摘出手術の段階に
入っていくのであるが、私には最初の医師の 「何かわるいもの」とか、「わるさをしてい
る」といういい方自体への異和がずっと持続し た。
 このいい方は、たぶん現在の医療に関わる人 々の多くの発想の素直な反映であると想定
できる。事実、その若い医師は活発で好意的な 医療を、どの患者に対しても心がけている
ようであった。だから私の異和は、医師個人の 発言に対してではなく、それを契機しとつ
つも、現在の医療に関わる人々の多くの発想で ある、よく判らないもの=わるいもの、除
去すべきものとする判断の自明さの根拠に対し てである。私としては、これまでの検査方
法ではよく判らない形に見せていた器官に対し て不思議な内部の宇宙のドラマの非人称の
登場者という親愛感があり、できるならば切 開〜除去という方法でなく薬品による溶解、
衝撃波による破壊・粉末化、新しい取り出し技 術(右の図参照)を希望していたのである
が、それぞれ症状の拡がりや判らなさの程度に 対して適切ではないという医師の判断で切
開〜除去という方法をとることになった。私も 同意したが、それは手術段階の別の主治医
が、自分も切開〜除去という方法をとりたくな いのだが、現段階の技術的限界と症状の時
間的切迫とを考慮すると、このやり方しかな い、と率直に語ったからである。
 私は、身体の内部に発生するもので先験的に 〈わるい〉ものは何もないと考える。総体
のバランスを乱したり、医療の方法から邪魔に なったりする場合でも、バランスが乱れる
ような身体のあり方(生活の仕方)の情況的バ ランスから評価するべきであるし、邪魔に
なると感じる方法的限界が身体にとって邪魔な のだと感じる方法的感性が必要であろう。
本来、身体の個々の細胞や器官は、それ自体と しては常に身体のプラスになることを目指
して機能しているはずであり、現象的に〈わる い〉とみなすとしても、そのようにみなす
身体や医療の総体としての〈わるい〉状態こそ をまず問題にしなければならないのではな
いか。こういう主張は、私が国家のレベルから は前科二犯の〈わるいもの〉であるとされ
ていることからも来ているであろうが、決して それだけではないはずである。

『ガ ン病棟のカルテ』より

 さて、医療の領域において〈わるいもの〉の 筆頭にあるのはガンであろう。しかし、入
院中に差し入れてもらった森下敬一(『ガン 「消去法」』91年第8刷、自然の友社)を読
んで、前記の私の考えをガンについて具体的に 補強してもらうことができた。
 かれが長年のガン患者治療の経験を踏まえて 得た事実から得た示唆を基礎にして私が強
調したいことの要点は次のようである。
(1)ガンは細胞分裂で増えるのではなく、血 液の質的変化に対する身体の反応として赤血球
 や白血球が浄血装置を作るために集合して生 じる。(敗血症で数日で死ぬ人がガンのお
 かげで数年生き延びる例)従って、ガン腫は 警報装置であり、〈よいもの〉である。
(2)ガンは、これまでの医療の把握や自分の 生理や幻想のあり方の仕方を変換することによ
 って治る可能性が大きくなる。。(1)から も〈怖しいもの〉ではない。また、治らない場
 合も、その事態をもたらした自己や社会状況 の批判へ向かうならぱ〈怖しいもの〉は何
 もない。
(3)タバコ=(肺)ガンの主因説には根拠が ない。少なくとも、ガンの主因となる食物(公
 害物質、肉食中心のメニュー)や生活環境が 遺伝子に与える影響の比重からすれば、量
 的に節制する限り問題はない。

 これらの主張は一見すると現代の医療の常識 に反しているようであるが、様々の分野の
人々がどこかで直観的に了解しうるはずであ り、ガンに限らず、現代の医療や文明の常識
を疑い直すところからのみ本来の失われていた 自己を主体とする医療も生き方も可能にな
るのではないか。

 対象としての〈わるいもの〉を取り除く手段 を象徴するメスについても、医師の側から
深刻な反省と止揚の試みが出現してきている。 庭瀬康二『ガン病棟のカルテ』(新潮文庫
91年第9刷参照))には「医学からの新たな メッセージ」として〈メスの崩壊〉という衝
撃的な提起がなされている。(論述の一部をこ のぺージ右に掲載)
 かれの崩壊感覚を救い、飛躍させたのは、自 分で作り出した〈メデュトピア〉という概
念である。これはMedicine(医療)、 Education(教育)、Utopia(ユートピア)
から形成されたMEDUTOPIA である。〈メデュトピア〉では医療は技術ではなく、
〈技術+教育〉であり、医療システムは地域社 会と結合した共同体として構想され、実践
されつつある。
 前記の二人は、それぞれの活動の極限におい て医療の、また現代文明の限界を突破しよ
うと模索している。私たちは、これらの模索に 共通する試みを別の領域から開始してきた
ともいえる。私たちには、技術も拠点も支持者 も可視的には殆どないといってよいが、こ
の条件自体を逆用してあらゆるテーマと場に交 差し、共有し、新たに提起しつつ生きてい
くであろう。その時々に発見するものを読者に 伝え、示唆を得つつ…。この項では、それ
を〈わるいもの〉概念の変換として開始した。



    老 人医療への救急医療


 私は入院中に病室をいくつか移動したが、老 人たちと同じ病室にいた期間が長かったこ
ともあって、(超)高齢化社会へ否応なし移行 しつつあることを実感した。医療技術の進
歩とヒューマニズムの自明の前提化により、本 音はともかくとして老人医療の重要性は、
世界的に益々叫ばれていくのであろう。老人医 療を象徴とする社会保障費の削減を意図す
る政府に対して防衛費を削減・廃止せよと主張 するのは正しいが、問題はもっと深いとこ
ろにあるはずである。
 総合病院に入院していると、昼夜を問わず救 急車で緊急の医療を必要と判断された人々
が運び込まれてくる。さまざまの生活の場面で の突然の発病、交通事故などが私の知りえ
た入院の原因であるが、その他に自殺未遂、ス ポーツ〜遊びの過程や争い(性の葛藤、利
害の対立、党派闘争、権力による弾圧などを含 む。)、自然・労働災害による負傷者は常
にありうるし、私たちの全ては環境破壊や原発 事故や戦争などの影響で絶えず運び込まれ
うる位置に生きている。
 これらの人々への医療の特性を考えてみる と、時間的な緊急性と、言語交通以前の処置
の仕方において、老人医療の対極にあることが 判る。勿論、これらの人々の中に老人も含
まれうるのだが、今は医療の方法的な特性とし て対極において把握してみると、老人医療
では前記との対比において空間的な緊急性(例 ―どこに収容し、だれがずっと世話をする
か。)と言語交通性(例―絶望的に長く、とり とめなく続く話につきあうことを含む。)
が重要な意味をもっているといえる。
 ひどい反発を引き寄せるかも知れないが、私 は救急車で運びこまれた人は回復後、入院
期間に応じて一定の期間、緊急に人手の必要な 場所の老人介助を無料でおこなう条件で医
療の対象にする原則をつくってはどうかと考え る。その介助の過程で自分が救急医療を受
けるに到った個人的・社会的原因についてレ ポート(文書、テープ、ビデオその他の任意
の形式)を公表していくことが義務づけられ る。レポートの代りに、ずっとボランティア
活動を続けることも歓迎される。一方、老人 (一応65才に達した人を想定するが、同等の
資格があるという自薦・他薦も可能)は、苦し まずに死ねる薬を入手する権利がある。そ
の人が実行に先立っておこなう〈遺言〉が他者 の身体〜生命の解放をもたらず内容である
場合(例えば、死刑執行予定者の釈放など) は、直ちに実行されるものとする。このよう
な原則の実現が可能になる社会はユートピアの 端緒にある。この提起が反発を引き寄せる
とすれば、生理年令の如何を問わず、その人 と、その人を許容する社会体制は、たどって
きた歴史の総括を次の世界に伝える意味のある 〈レポート〉ないし〈遺言〉として作成で
きない程に瀕死の重症・重病の状態で〈老い〉 ているのではないか。緊急に〈病院〉とし
ての〈死者たちによる審問の場〉に運び込まな ければならないであろう。

タバコにも一利はある


註1―老人問題に関する予言的SFとして筒井 康隆の「断末魔酔狂地獄」(73年)と小松
 左京の「せまりくる足音」(73年)があ る。その対比性は現在読み返しても充分に興味
 深い。これらを包括し越えていく作品を実現 していくのはだれか。
註2―「汝がまだ若い日に汝の神を知れ。」数 千年前のイスラエルの王であるソロモンが
 『伝道の書』でのべる言棄は、表層の指示表 出とは別の声で、どんな時代や年令であろ
 うと神など不要だ、と呟いているようであ る。「空の空、空の空、一切は空である。」
 かれが最後近くで発する言葉ほど私を不思議 に生き生きさせてきたものは聖書の中には
 ない。しかし、考え直してみると、さらにソ ロモンの言葉は、神=「造り主」の本質や
 システムを若い頃からよく認識しておけ、と いう助言としても読むことができる。語源
 的には、イスラエルとは〈神と戦う者〉であ るから。そして、私たちにとっては〈神〉
 とは科学(医療)技術である。
註3―タバコがアルツハイマー氏病(老人性痴 呆)に有効であるかも知れない、という記
 事を入手した。(このぺージ右参照)これに 限らず、タバコ有害論への反証は今後もた
 くさん現われるであろう。刊行委へ資料や意 見を寄せていただきたい。入院中には、タ
 バコを吸っている人は麻酔が効きにくい、手 術後の肺炎などを併発しやすい、と医療関
 係者から警告されていたが、私は自分を人体 実験の対象にして、入院期間中ずっと、べ
 ッドで動けない状態の場合を除いて、手術の 始まる朝も屋上の〈バリケード空間〉で少
 量ではあるが吸い続けていた。そして、私に 関する限りでは、宗教以上に力づけられた
 ことと、警告されたような事態にはならな かったことを報告しておく。
註4―関連するので、19世紀前半の詩人ハイ ネの宗教=麻薬論について少し紹介すると、
 ドイツを追われてパリに亡命したかれは、晩 年の一人暮らしと病気(脊髄炎)の中で宗
 教(カトリック)に帰依したと評されている が、活発に詩作を続け『ドイツ宗教・哲学
 史』を書いていた時期に、死や老いを前にし て宗教が苦しみを緩和してくれるならぱ、
 麻薬(モルヒネ)程度の価値は十分にあると 述ベ、そのことを晩年に想起して笑っても
 いる。カトリックではなく、今もミロの ヴィーナスへの情念を絶ちがたいとも。事実、
 死の直前のベッドには不思議な女性ムーシュ の姿があり、ハイネは彼女を描いた詩を残
 している。
註5―老人医療などで現在の日本における困難 な条件下において可能な限り「よい病院と
 はなにか」について同題の本が大変参考にな る。(関川夏央著、92年5月)ここで指摘
 されている中で共感できるのは、医療とくに 老人医療が機械化・技術化の困難な、ひど
 く人間的接触を必要とする仕事であるという 指摘と、この仕事は若い看護婦らの痛まし
 いほどの献身によって(それを計算したシス テムによって)辛うじて支えられていると
 いう指摘である。この痛ましさは、待遇改善 などの要求によってだけではなく、この社
 会の全員が彼女らと同じ仕事を交代でしてい くシステムの実現による以外に解決の道が
 ないと思われる。そのうち、思いがけない反 乱=業務放棄が、彼女らに限らず、また医
 療の領域に限らず生じていくであろう、と 69年の視点から緊急に予告しておきたい。  



           排泄処理


 健康な状態の時にトイレ以外の場所、特に ベッドに寝たままで排泄する、しかもだれか
の助けをかりてすることを想像すると何か異質 さと恥らいの感覚がやってくるが、実際に
体験してみて殆どその感覚がなかったのが、む しろ不思議であった。これは逆に考えてみ
る方が正確であるのかも知れない。本当は健康 な状態の時の想像が誤っている、少なくと
も部分的な想像である、というように。これは 排泄に限らず、いくつもの事柄についてい
えるのであるが、健康な状態の時の想像と実際 の感覚の落差がこれほど大きいものはあま
りない。極端化していうと、身体が弱り、排泄 も自由にはできない状態のままの感覚で把
握する瞬間に、任意の概念のヴィジョンが最も 正確に現われてくるのではないか。
 私の場合には、被拘束空間で監視されながら 排泄した体験(概念集1の〈監獄〉参照)
や、幻想性の余剰の処理と格闘してきた過程 (概念集5の〈資料の位置〉参照)が、前記
のような考えを誘う要因になってはいる。しか し、最も大きい要因は、実際に病室で見た
看護婦さんたちの仕事ぶりであった。かの女た ちは、病室の患者がベッドの枕元にあるナ
ース・コールのボタンを押すと、昼夜を問わず 直ちに来てくれて手際よく排泄処理をし、
尿ビンや便器をトイレへ持っていって洗い、乾 かして次の排泄に備える。かの女らが、こ
のようにできるようになるまでの、あるハード ルの越え方は何事かでありうる。それは、
いくらか唐突ではあるが、私に闘争に参加した 者たちが初めて角材を手にして機動隊に立
ち向かう瞬間のハードルの越え方を想起させ た。看護帽とへルメットの類似性も。このよ
うな連想や比較は、常識的には看護婦さんたち に失礼なのかも知れない。しかし、どうし
ても私は同質のハードルの越え方を感じてしま うのである。さらにつけ加えると、始めて
へルメットをかぶり、角材(ないし鉄パイプや 爆弾や銃)を手にした人々は、患者の排泄
処理と同質の行為をしようとしていたのであ る。ただし、かれらは殆どそのことを意識し
てはいなかったと考えざるをえない。していれ ば、闘争と同時に、また後からであれ、至
る所にある〈排泄〉の処理へ立ち向かう作業に 取りかかっていたはずである。私自身が、
やっと最近になって取り組む必要性を感じてい る遅れの責任からこういうのであるが…。
 なお、かりに病院が宇宙空間のステーション に設置されているとすれば、排泄物を水洗
トイレで処理するとしても、ステーションの外 へ廃棄せずに再利用のシステムを作るであ
ろう。それと同様に、巨大な宇宙空間のステー ションとしての地球の個々の生活の場にお
いても再利用を考えるべきではないか。肥料そ の他さまざまの物質に変換するというだけ
ではなく、〈汚いもの〉というイメージを解体 して、生命のリズムを身体と自然を結ぶ環
において再把握する素材になりうるから。そう なるためには、まず、家族や職業的看護の
レベルを超えて、各人が自分や他者の生理的 な、また幻想性としての排泄物の処理を対等
に自主的に行う共同の関係を作りだし、訓練し ておくことが不可欠である。この試みは、
多くのテーマに思いがけない方向から照明を当 て、応用の仕方を示していくであろう。


1―住居、都市の機能における排泄処理設備の 重要性。
 最初に確認・設置する必要と方法。(全員の 関わり方)
 対比的に、極限的な闘争の場面でのトイレの 非存在が意味するもの。
 また、監獄の服役者は決められた時間にしか トイレへ行けず、懲罰で鎮静?用の袋に
 首だけ出してミノ虫のように入れられた者 は、この状態で何日も食事・排泄をせざる
 を得ない。全ての食事・排泄する人はこの事 実に注目してほしい。

2―日常的な遊び、労働、性的行為の過程でも 絶えず気になる排泄の問題。
 子どもがトイレに行きたいとトイレのない場 所で泣き出した場合の対処の仕方。
 犬などの家畜・ペットを散歩させながら排泄 させる時の飼い主の気持。
 浮浪者と呼ばれる人々にとっての公衆便所 (と、そこに住みつく人々の位置)
 入院中の絶食・点滴と排泄への影響。植物人 間の排泄における〈夢〉の成分の度合。
3―排泄は処理するだけのテーマか。
 各人が数時間ごとに処理を迫られつつも直接 の対象化を放棄しているテーマの象徴。
 身体状況、都市状況、世界状況を判断する素 材。
 武器としての逆用。(例―皇居前広場での反 天皇闘争)
 芸術の領域での扱い方。(タブー性の越え 方。)
 地球の生命の生誕に異星人の排泄物やゴミが 関わっている可能性。

(前記の断片的メモは、排泄に関する直接討論 のテーマの一部である。テーマを補充し、
意見を提起しつつ討論に参加していただきた い。文書による通信での参加可能・歓迎)


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  1. 概念集・8  (前半)
    1.   表現過程と しての医 療空間
    2.       医 療方法と 身体感覚
    3.     病院と 他の空間 の比較
    4.        チューブ状 の身体
    5.     手術= さめたあ との夢
    6.     〈わる いもの〉 概念の変換
    7.     老人医 療への救 急医療
    8.                排泄処理
    概念集・8  (後半)
    1.         食 事メニュー
    2.         メ デュトピア
    3.         屋 上からの光景
    4.         一 人は万人のために、万人は一人のために
    5.         入 院中の各テーマの展開
    6.         あ とがき