当事者



 裁判における訴訟行為をなしうる資格を認定された者をさし、裁判所の廊下から法廷に入るドアも、傍聴人用と当事者用の二つに厳然と区分されている。裁判記録の閲覧や謄写も、当事者ならば認められる。九〇年一〇月の京都地裁の民事法廷で、A367占拠~明渡し強制執行時に留置された物品(概念集3〈空間や留置品と共に成長する深淵〉参照)に関する事件の全当事者(原告、被告、参加人)が不出頭し、裁判が休止状態になる〈事件〉が発生した。

 休止というのは延期とは異なり、休止後三ヵ月以内に当事者から再開を求める申し立てがない場合には、原告が訴を取下げたとみなして処理される。訴の内容は物品の返還要求であったから、一見すると、当事者とくに原告が、この要求の意思をなくしたと受け止められかねないけれども、逆に、原告を含む全当事者(A367の自主ゼミの積極的に参加していた。)は、訴の内容や位置をより深く応用するために、五月と一〇月の討論集会をへて、原告から期日の延期申請を提出しつつ法廷に非存在したのであった。

 では、何をめざしているのか。本来この事件では、強制執行の裁判の当事者とされた五名の被告だけが前記物品に間する権利をもつのではない、と主張することにより、

①大学~国が被告を松下など五名を被告とする認定の部分性の批判
②この批判に応えないままの審理過程と強制執行(根拠とやり方)の批判

を書面の上だけでなく(註…多岐にわたる異議の申し立てが全て書面審理だけで却下されてきた経過については、時の模通信第15号15~19ページ参照)なんとかして法廷を媒介しつつ、とりわけ執行官への質問を実現しつつ具体化するには、A367の自主ゼミ参加者の中で明渡し請求事件で原告(国)から被告とされなかった者が仮装的に原告になって物品の権利を主張することが極めて有効であり、成果を収めてきた。この方向の展開自体は今後も持続させていくとして、八○年代末から私が提起してきたのは、

③審理における当事者性、公判日に合わせて設定する会議の自然性に埋没しかねない各人 のかかわり方を根底から疑いなおすべきではないか、ということであった。

 この提起は、たんにA367公判についてのみならず、各参加者の全生活~活動における当事者性や発想の様式を疑いなおすべきではないか、という切迫に支えられていた。個別には記さないが、自らは反体制的と思い込みつつ慢性的に生活~活動している人々の中には六九年以来の成果を台無しにしながらも何か正しい意味のあることをしているという倒錯さえ生じてきている。しかも、この提起は直面する裁判のテーマを深化し、国家の論理や力とたたかいながら具体化されなければならない。そこで、九〇年五月には原告から訴の変更(これまでの被告を再検討し、より本質的な被告を指示する。…a)と、それが可能になれば、こちらから公判期日として適当な時期を連絡する(b)、という私のプランを、仮装的に原告の申し立てとしておこなったのである。

 aとbは別の意味で画期的である。というのも、aで、これまで裁判所に認めてもらっていた当事者性をとらえかえすという場合、たんに被告についてのみならず、原告や参加人や傍聴人、さらに法廷にはこないが同一日に設定される会議には参加する人、法廷にも会議にも参加しないが〈A367〉テーマに不可避的に関係ある人にまで及ぶ射程範囲をもちうるからである。また、bは裁判期日およびそれに規定されてのみ数カ月毎に開かれてきた会議形態を破棄し、提起主体による時間性の紬の占拠を可能にするからである。この画期性の破壊力を、裁判官を含む秩序維持者たちは当分の間は無視しうるかも知れないし、ヴィジョンの波動の行方の全てはこの提起にどこかで共感する読者にも理解されないかも知れない。また、aの〈より本質的な当事者〉に甲山事件を含む被告人や様々な領域の死者たちを想定しており、bの占拠の質は全ての既成とみえる事実(裁判の対象のみならず旧・当事者の全生活~生理の様式も!)を支える関係性の転倒にも至りうるのだと私がつぶやいても、とくに旧・当事者たちは異和を示すかも知れない。しかし、全てはこれから始まるといってもいい。六九年大衆団交視点の現在的展開として…。

 今後どのような経過があるにしても、この提起にこめた〈 〉に注目してほしい。希望者には関連資料の配布可能。なお、この提起の当事者は私ではなく〈私〉であり、より本質的には前記のaやbを必要とする全ての〈 〉であろう。


註1.提起されても、よく判らないとか、判るように説明せよとのべて居直る者たちの他に、自分の発想や生活基盤を固定化したまま提起について考えるフリをしてみる者たちも、大学闘争における教師たちのハードないしソフトな対応を二十年後に無意識の内に再演しているのであり、それらの者たちが、かつての教師たちや同レベルの人々を意識の上で軽蔑したり、批判する場合には、論理的にはかれらより正しいとしても相手以下の存在に転落している。かれらは、だらしないとはいえ、ともかく情況の当事者であることから逃亡できないまま苦しんだからである。

 2.刑事裁判における当事者主義の概念は、被告人とされた者の公訴事実を予断なしに直接審理するという戦後民主主義の発想から生じているが、二つの点で空洞化している。一つは、実際には判例の秩序を強化するために不可欠の当事者としてのみ扱われる被告人に直接に不利益が及ぶように機能させられていることであり、もう一つは、事件にかかわる関係性の総体ではなく、審理しやすい者ないしテーマのみが直接に審理される当事者ないしテーマとして許容されることである。それぞれの空洞化との戦いを直接には法廷にかかわらない場や人へも深化させる過程と統一的におこなう過程が、二十年にわたる仮装被告団の試みの中心軸の一つである。