話と生活



 六九年の春頃に、同僚の一人(私は、家庭というものを持たない年上のこの人を生活の達人であると尊敬していた。)が私に、このままでは、あなたは孤立して大学にいられなくなるから、もっと、いろんな人と会って話をした方がよい、自分が場をつくろう、といってくれたことがある。私が驚いて、この大学で私以上にいろんな人に会って話をしている者はいないだろう、というと、相手はそれ以上なにもいわなくなった。 (1)

 七〇年に入った頃、大学評議員が二人で私の住居にやってきて、近くの学生がこない高級(?)レストランへ行って話をしたいといった。私がだれとでも話をする原則から出掛けていくと、二人は、神戸大学の同窓会、特に財界グループが私に何年でも、世界のどこへでも留学させるといっているが応じる気はないか、と尋ねたので、笑いながら、六甲空間へなら永続的に留学したいというと、呆れて帰って行った。 (2)

 七〇年が夏から秋に入る頃、処分策動の最右翼の位置にいた教授会議長が私の住居を訪れ、玄関で遊んでいる幼い子どもの方を見ながら、今からでも辞表を出してくれれは処分せずに退職金も出し、別の大学に職をさがす、といった。これは自分の意見というより大学の最高責任者から出た話なのだ、とも。私が、そのつもりはないというと、処分された後の生活は可能なのかと念を押すので、可能だというと、処分されても生活は可能だといったと伝える、といい捨てて憤然と去った。 (3)


 今頃こういうエピソードを取り上げるのは、 〈話〉とか〈生活〉に関して、このようなやりとりが起こりえた場所から、はるかに遠くまできている意味や、逆に、何一つ変わっていないかも知れない意味について考えてみたいからである。

 (1)はともかくとして、 (2)、 (3)の〈話〉が起こりうるのは、私が一定の特権的な職場におり、それ故にも私がそこから飛び立とうとしたことを想起させる。 (1)の「いろんな人との話」については、二十年を経て、前よりも一層つよく、〈大学〉内のだれよりも話をしてきたと確信しており、〈話〉の場としても、現在の国家機構の頂点(例--最高裁~皇居)から底辺(例--刑務所~河川敷)をカバーしているし、闘争過程に不可避的に関わる人やテーマに出会うために国内の各地へ散歩し、闘争をはみ出す風景や関係とも充分に〈話〉をしてきている。 (国外へは全ての獄中者が自由に行ける段階で行く。また、この星の表面を移動することに価値を見出す発想を軽蔑している。)

〈生活〉が可能であったことは、今このように私が生き、考え、表現していることで証明されているであろう。しかも、たんに可能であったというはかりではなく、前記の人々や大多数の人々がとらわれている概念の水準での生活を続けていたならば死ぬまで見えず判らなかった〈生活〉を実現してきている。かりに、二十年前にもどって、より多くの選択肢が可能な状態を差し出されても、今まで選んできたものを、同じ軌跡で(できれは、もう少し早く、概念集などの作業を開始しつつ!)生活するだろう。