批評と反批評

批評と反批評



 ある批評が、独立した批評文としてではなく、「作品」の登場人物の言葉として批評する場合がある。批評集γ系でいうと、53池田浩士の、占拠空間に関連する劇?や、北川透が「あんかるわ」81号でおこなっている主客?対談(今後の刊行パンフに収録予定)がまず想起される。

 このような〈批評〉に対してはどのような反批評がふさわしいのであろうか。①無視する。②著者自身の批評と同じとみなして反論する。③こちらも対応する作品を構想し、登場人物に反論させる。…というような対応を想定しうるが、いずれも気がすすまない。こんな水準の批評の相手をしていられるか、という私の情念は①に近いけれども、このような批評を具体化させているのば個々の主体ではなく、このような批評をメタン・ガスのように吹き出させる情況の腐敗が〈批評主体〉として向こうにあると把握すれば、無視しない方がよいので、

①に対応して、同一レベルの活字としてではないが、私の全表現ないし活動の内容として反批評し、すでに、それらの批評の発生基盤を破壊しつつあるし、②に対応して、処分・起訴理由への反論と同位相の詳細な批判レジュメを開示することにより、かれらの批評がかれらの表現軌跡を死滅させる質を持つことを明らかにしたし、③に対応して、かれらの作品自体を私の〈作品〉である批評集に登場させ、パンに変換している。本来この方法は、国家やマスコミによる批評に対して思いついたのであるが…


 具体的な対応としては、これで充分である(②のレジュメは入手希望者に配布する。)として、私自身にとっての批評と反批評の原則を提起しておきたい。

1.自分が展開に参加しえないテーマに関しては批評しない。ただし、参加しえない根拠に関しては常に明らかにし、かつ、根拠を固定化しない。

2.批評や反批評を言葉の水準に限定せず、共通のテーマを、どのように担うかについての存在~発想様式の差異として把握する。従って、沈黙の質~動きが基本である。

3.国家のα系批評、マスコミのβ系批評は、自らの解体の契機を持ちえていないという 意味を個々のγ系批評の主体は自らの成立の根拠のためにも考えておくべきである。

4.言葉の水準に限らない〈作品〉は、必ずα~β~γ系の批評の総体を引き寄せる。この引き寄せ方が象徴する関係の批評が〈批評〉の出発点である。

5.批評と反批評のいずれの当事者になっても、表現の作成に要する労働と存在の条件が対等に開示される平衡点を見出し、共にそこから声を発することを呼びかける。

6.批評ないし反批評が、現段階までの表現意識の最高度の達成および最基底の困難と交差することを目指す。また、批評ないし反批評が、現在の形態をとってしか具体化されえていない条件を相互への拘束性として把握し、表現~存在条件の解放を目指す。


註…批評集の刊行以後、この企画に対する批評が出てきているが、全面的な支持の批評よりは疑問ないし否定の要素を帯ひる批評の方がトレーニングには有効なので、その中から代表的なものを紹介し、かつ反批評を対置してみる。

①批評集とくにγ篇の文章の中には、著者の了承をえないで掲載したものがあるのではないか。--この疑間は、表現の私有制に無自覚に拘束されている人から出されている場合が多い。この人々は、国家による批評(α系)、マスコミによる批評(β系)についても同じように疑問を提出しうる場合にのみ自らの疑問を成立させうる。私たちとしては、文字~非文字を間わず、~α~βーγ~系の批評は、具体化した瞬間に共通の批評ないし反批評の素材になっていると把握し、それらを統一的な方法で扱いつつ、より高次の発想~存在様式へのバネにしていきたいと考えている。

②読みにくい。このようなパンフを刊行するとしても無料でよいのではないか。←かりに全ページが真っ白でも、真っ黒でも刊行の時期と物質性に意味をこめて刊行していく。(契機は、八七年九月の〈時の楔への・からの通信〉を参照。)読みにくいとすれば読みやすい刊行手段を共有していくプランを提起してほしいし、同時に、表現の成立現場(過去形とは限らない。)ヘ一緒にでかけて、そこで読んでほしい。私たちの刊行しているものは、この方法で生活が成立しなければ、させえない条件の誤りと変革の必要を、任意の人が了解することを目指している。カンパ(貨幣でなくてもよいし前記の意味での変革の意志の共有の度合で0に近付く。)は、過渡的な、読みやすい刊行手段の獲得と、表現の成立現場への出立のための共同の費用なのである。

③重要なものを選んで刊行すること、過去の表現ではなく、現在なにを考えているかを示す表現の刊行を望みたい。←言語やジャンル総体の解体~根底からの再把握を不可避とした六九年情況以降の、依然として未解決のテーマを扱うには、自らが表現したものだけでなく、自らについての批評の総体(とりあえずα、β、γとする。)の全過程の構造と力を測定しなおす必要がある。この作業を媒介してこそ、現在形という以上の恒常性を帯びた表現も出現してきている。 (例…概念集など)

④自分たちの狭い宗派的な共同性のなかで、刊行したパンフについて討論集会などをしても無意味ではないか。←私たちは、この企画に限らず、あるテーマについて討論する場合、関係あるすべての当事者が、その場に可視的に存在していなくても、等距離かつ対等に参加しているという関係を踏まえて討論する。これは、大衆団交(概念集・2の項目参照)の現段階での具体的実現の困難さの根拠を踏まえつつ、この視点の変換極限から全てのテーマを対象化しようとする方法にもとづいており、想定しうる他のどのような討論の場に比べても自由かつ解放的である。論より証拠、一度でも参加(可視的にではなく本質的に)した人は納得するであろう。

⑤パンフの内容は待望していたものであるが、ワープロによる刊行という方法への異和がある。←概念集・3〈ワープロによる刊行〉を参照していただきたい。