一票対〇票

一票対〇票



 一九七一年四月に、それまで一年間にわたって逆封鎖されていた神戸大学教養部のB一〇九教室が再び授業に使用され始め、同時に、私たちによる再占拠闘争としての授業への介入~自主講座化も始まり、五月には、管理者の教養部長から私に対して、構内立ち入り禁止通告と告訴の警告が出された。丁度おなじ頃に、神戸大学生活協同組合の各ブロックの組合員の意見を集約して活動に反映させる役割を持つ、総代選挙の公示があった。 私は、生協の活動にも選挙という方法にも関わらずに過ごしてきていたのであるが、この時ふと思いついて、教養部の教職員ブロックの総代に立候補した。狙いとしては、一、半年前の一九七〇年十月に大学当局は私を懲戒免職処分したと発表しているが、人間の社会的規定は重層しており、学内に限っても、私の労働組合員や生協組合員の資格は持続しているから、それらの組合員としての活動を仮装して構内立ち入り禁止等を無化していこうとした。二、選挙における立会演説会を要求して、教職員組合(日共系で、私が二年前に組合費の納入を拒否して以来、組合員の権利を停止)からの候補者や、生協理事会(非日共系であるが、当局と協調して組織を維持する路線)からの候補者や支持者たちに闘争の総括を迫るために一人で開始する〈大衆団交〉を構想した。三、私の生涯において自分から立候補する、多分、最初で最後の機会を逆用して、選挙や投票の意味を、自分を代表するのは自分しかないという全共闘性の原点からとらえ直そうとした。意識の片隅には、〈Oか1〉の二進法的世界像への散歩の計画もあった。

 構内立ち入り禁止通告等は、見事に解体され、選挙運動期間中にはB一〇九教室を含む空間で多様な活動を展開することができ、この成果は選挙終了後も持続する。他の二名の候補者は、諭争での破産が自明であるためか、数回にわたってB一〇九で中立の選挙管理委員会がやむをえず?主催した立会演説会に現われず、投票数で決着をつけようとした。

 選挙当日の投票時間帯の始めから終りまで投票箱の傍に待機していた私は、ともかく投票させろと要求する教職員多数と対峙して討論を呼びかけ、問題点を持続させるために、この日は、あえて自分にも投票しなかった。投票妨害があったとするビラや立看がいくつも現われ(私の行動を支持するものは、元全共闘派を含めて〇)、別の日に第二回の投票が行われ、投票箱を巡る争奪戦が数時間あったが、私は一人で自主管理し抜き、最後の瞬間に、いま、この情況で選挙の意味を生かしうる唯一の仮装行為であることを宣言しつつ自分に投票した。投票結果は、1票対0票!数日後の第三回も同じ経過であった。

 これ以後、投票(と選管による当選確認)は永続的に宙吊りとなり、各テーマの情況性は、広く学内外に知れわたっていく。(神戸大学闘争史、批評集・β篇、五月三日の会通信・第7号参照)なお、この項目は、参議院選挙の期間中に作成している。