自主ゼミ



 学生が既定の学科の既定の担当者による授業以外に、学科・学部外ないし学外からの担当者を見つけて大学側にゼミナールの開講を申請すれば、教授会で認めた上で正式の授業として時間割に組み入れる制度。六九年以後、学生の授業計画への参加を認めよという要求に対応して、いくつかの大学で実現したが、殆ど活用されていない。これは、バリケード情況での非・大学解体派(私が関わってきた京大の場合は民青系)の要求を、大学側が制度的に取り込む形で、極く僅かの単位数に限って認めたという経過や、バリケード解除以後、自分で学内外から担当者を捜し、申請手続きまでして良い?授業を受けて単位を取ろうとするほど大学に期待している学生がいなくなっている、という状態からは当然であるし、私も非常勤講師という形であれ、既成の大学のシステムの中へ復帰するつもりは全くなかった。

 では、なぜ私は、一九七四年四月以後(正確には、五月に岡山刑務所から保釈されてから)参加したのか。この段階で私は、

a.七〇年以後、全国的にいくつかの大学で教官や学生に出されている処分(私の場合は 刑事起訴や大学構内立入禁止をともなう。)の構造や力を、前記の制度を許容している〈ゆるやかな〉場で総括しつつ、総体的に反撃したい。
b.前記の制度の建前を最大限に応用して、学外の学生・労働者・無職の人々・幼児(障害を持つ者を含む。)を参加者として、最終的には担当者として認めさせ、成績評価権を全員で共有することによる内部からの大学解体を試みたい。
c.闘争拠点としての神戸大学から平面的に移動するのでなく、拠点への関わりは深化しつつ、垂直軸の上方へ噴流する結果として傘状に拡がりつつあるテーマの着地範囲の総体に同時的に巡礼する歩幅で、京都へも週一回ずつ参加したい。
という風に考えていた。

 七四年度に公文書として配布された履修案内は、私や学内外の共闘者との討論をへて作成された次の文章を掲載している。「ドイツ語を契機として参加者が教材やテーマを持ち込むとともに、学外からの問題提起や発言も積極的にとりあげ、大学闘争の過程で出てきたさまざまな問題(たとえば単位制など)を考えながら、次のような原則でおこなう。
①公開。 ②参加者の自由な討論ですべてを決定する。 ③このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。」

 この原則は、制度の内部で提起され、制度(大学当局)に認めさせたものとしては最上のものであり、今後おなじ試みをおこなう際にも参考になるであろう。ただし、次にのべるような経過の確認~止揚方向を追求しつつ参考にしていただきたい。

 原則のそれぞれは、基本的には実現され、獄中からの受験プラン、押収品受取プラン、人事院や裁判所との交渉プラン等が討論され、講師料の委託もおこなわれ、その他さまざまなテーマ群の展開は、大学闘争の応用篇にユニークなぺージを記したが、制度上の担当教官と主として学外者の間で自主ゼミの位置付け、とくに成績評価を巡る対立が生じ、単位認定と提出(参加者の多くは、七五年度の担当者として松下昇~未宇を教授会が認めた時にだけ提出可能であると主張していた。)を制度上の担当教官が一方的におこなう結果となり、分離されて教授会の議題となった松下ゼミは白票多数で否決されていく。

 七五年度、七六年度も経過の具体性は異なるが、成績評価と松下ゼミの実現不可能性に関しては基本的に同じである。 (詳細は、五月三日の会通信第21、23号等を参照)

この項目として強調したいことを個条書きにしておくと、

1.自主ゼミは、自主講座と異なり、バリケード後の制度上の概念である。この差異から生じる多様な困難にさらされる各参加者の問題を、常に前記の三原則(〈大衆団交〉の項目でのべている〈直接、公開、対等〉との対比~統一の視点が必要。)を生かして討論しうるならば、いつでも、どこでも大きい応用価値がある。

2.自主ゼミ的なものへの参加や評価の仕方によって、各人の大学闘争以後の情況(学内問題に限らず、世界認識から徴少な日常性に至る全てを含む。)への関わり方の特性が明白になる。ただし、特に外部からの参加者は、自己の活動の場で同じ比重の試みをおこなう時の困難さの把握をふまえてのみ制度内部の参加者と批判的に共闘しうる。

3.自主ゼミに関わる直前に私が考えていた前証のa、b、cについての予測と結果のズレ、および、予測していなかった意味と経過(d~)は次のようである。

a、bの実現の困難さは予測通りであったが、困難さの深さを具体化することで本質的解決への方向を具体化したのは成果である。cは予測以上に実行~実現している。

d.七五年一二月に松下ゼミが教授会に提出する前段階のドイツ語教室(教官)会議で否決されたことに対して、自主ゼミ申請者団の学生らが事務管理機能を持つドイツ語中央室(A367)を七六年一月に占拠し、自主ゼミがバリケード化していく。

e.一九七六年四月九日の〈松下未宇〉の死により、松下ゼミの実現が存在領域の永準で永続的に宙吊りとなった。七七年一一月の卵裁判の有罪確定(公務員資格の剥奪)による松下ゼミの不可能性は、ほぼ予測できていたが…

f.自主ゼミ実行委員会を共著者とする「ドイツ語の本」作成過程での新左翼出版社との対立と掲載拒否。新潟の参加者による〈正本ドイツ語の本〉の刊行(七七年)、後に熊本でも増補版の刊行(八二年)。ただし、増補版への私の原稿は掲載されず。

g.占拠したA367号室が、全国的な大学闘争に関する資料の集積~編集~閲覧の場として公開され、八〇年代に〈古本〉市および、生活と自己史対象化の場となる。

h.八五年二月一日(私は東京拘置所に勾留中)に前記の空間の明渡強制執行。その後の裁判週程を会む多彩なテーマの噴出…を対象化する全ての場が自主ゼミとなる。