法廷
法廷という概念についての大多数の入々が思い浮かべるイメージは、何かセンセーショナルな事件が審理される場所であり、よほど関心がない限り、法廷の中に傍聴人としてさえ入ることはない、という関係の遠さであろう。また、新聞記事やTVのニュース等で、特別の許可を得て撮影(なぜか、審理開始前の一瞬のみで、審理の過程の撮影は許可されない。取材記者以外のメモも)されたものを見る場合も、法廷入口の少し内側から、正面に厳かに座っている裁判官らを仰ぎ見ることを強いられる角度のものがほとんどである。このような角度は裁判官が法廷を考える視点と補完関係にあるように思われる。東大法学部教授から最高裁判所裁判官になった団藤重光は、世界大百科事典(平凡社)の「法廷」の項目を執筆しているが、そのかき出しは、「民事訴訟における口頭弁論期日や刑事訴訟における公判期日の手続きなどが行われる場所」で、そのあと四〇行あまりの記述のうち三〇行以上を、公衆(何だか、次に「便所」を連想してしまうが、これは裁判所の用語らしく、裁判所内の待合室も「公衆控室」とよばれる。)は傍聴はできるが、法廷では秩序が維持されなければならないから、裁判官の命令や規則に従わないと、退廷させられたり、身柄を拘束されることがある、という警告にあてている。法廷の構造とか意味についての記述は全くない。マスコミが流してくれるイメージで十分ということであろうか。
このような補完構造からはみ出してしまう、いや無意識に排除されてしまうイメージを連記してみよう。
法廷のイメージは、法廷内のきまざまの場所に身体を移動させてみないと、必ず総体のイメージに影響する欠損が生じる。傍聴人として柵のこちらで座っている時、当事者席に座っている時、証言台に立っている時、拘置所から専用通路を通って手錠のまま入ってくる時などで、これが同じ法廷かと驚くほど異なる印象がある。もちろん裁判官席に座るか、近くに立つような場合は、聖なる?場所から全空間を見下す感じになる。つまり、法廷という場所では、ある空間に身体をおく仕方と権力との関係が、極めて明確に対応しているのである。
私たちは、いくつかの法廷見取図を入手しているが(註一)、それ以前の法廷と比べて傍聴席の法廷平面における比率が減少していること、また、裁判官のいる法壇が高くなってきていることを念頭において見ていだだきたい。この変化は、裁判の形式的スピード化や警備の強化にも対応してくる。旧庁舎の時代には、法廷に窓があり、外の木に止まっている小鳥のさえずりを聞いたり、流れていく雲を見ながら尋問に答えたり、その様子を傍聴していることも可能であったが、七十年代から八十年代にかけて全国の裁判所の新・改築の波が通りすぎる過程で、基本的に全ての法廷は窓を持たず、壁の中に開じこめられる構造に変化している。
視線を遮断するという点では、東京高・地裁の廊下にある窓の外側の全てに、皇居方向が見えないような目隠しの取りつけられていることを特記しておきたい。また、廊下以外の部屋の窓については、外の景色、とくに皇居方向が十分に見えるように設計されているのは、豪華な裁判官室のみである。この傾向は、最高裁判所において頂点に達する。こういう空間性の中にいる裁判官によって、先述の特性を強化している法廷で審理がなされているのだ、ということは、とりわけ空間把握の視点を媒介して十分に留意しておくべきであろう。
法廷の構造という点で、大いに示唆を与えるものの一つは、神戸地裁の第二十一号法廷である。この法廷は、回廊状の建物全体を身体とみなした場合の左手のひじから先の部分に相当しており、その法廷だけで独立している印象を与える。左右の当事者席の背後には、それぞれ窓と、そして、これが重要なのだが、それぞれ相対して十二人分の座席がある。六人ずつ階段状に並び、総計二十四人が座ることができ、上側の座席は、裁判官席の高さに匹敵している。筆者は、法廷の見取図を入手するために、何度か裁判所と交渉したが、神戸大学闘争にかかわる、いくつもの事件の審理における被告人であったり、法廷で秩序破壊行為をしたという印象があるためか、入手できていない。 (註二)
これは、 一九四三年に停止されるまで十数年にわたって実施されていだ陪審制度に対応してつくられた法廷なのである。法廷そのものは、その後も重要な事件の審理の場として使用されてきた。不可視の陪審員にみつめられつつ。傍聴席も広く、法廷全体の二分の一を占め、座りきれない場合のために補助いすが付けてあり、また後で「立見」することも最近まで黙認されてきた。この第二十一号法廷も、取りこわきれつつあり、裁判所全体が新庁舎に移転する時期が迫っている。
もちろん、私たちは、空間としての第二十一号法廷を残せとか、復活させよ、と要求するのではなく、このような空間の変化に明確に示きれている情況的な意味を十分に把握し、対処する必要性を強調したいのであるが。
また別の方向から述べれば、例えば公務員の処分に関する公平審理制度(人事院や各地方自治体の人事委員会による)における審理は、任意の民間の会議室等をかりて行われるのが通常であり、同じ処分に関連する問題が、民事や刑事の法廷のみならず、全く別の場所でも公的に審理されうる、という点が重要である。裁判官に相当する審査委員(ふつう三名)も、高い壇上にではなく、当事者や傍聴人と同じフロアーに座り、警備員の姿もない。これが本来の、秩序的に見た場合にも了解しうる審理の空間的イメージではないだろうか。(註三)このようなイメージの〈法廷〉に逆行していく現在の裁判制度や運営の仕方は、必ず、その逆行性自体によって裁かれていくであろう。そのときのイメージは、一九六〇年代終りの各大学でみられた大衆団交のイメージに限りなく接近していくにちがいない。
註1・松下昇についての批評集α篇には、現場検証資料として法廷見取図をいくつ、 か掲載しているので参照されたい。
註2・一九八八年三月二八日に〈非合法〉に撮影した写真は回覧可能。
註3・最終的には、円卓をかこみ、全参加者(人間だけでなく、全生命体)が対等の決定権を持つ方向が望ましい。