自主講座



 一九六〇年代末の各大学のバリケード内でおこなわれた自主的な問題提起・討論をさすが、私が直接に関わったものについては、〈私の自主講座運動〉 (表現集に掲載)で特徴を六項目にまとめている。要約的に繰り返すと、

1・闘争の持続~深化の一つの方法としておこなうが、講師と聴衆、学外者と学内者、支持者と敵対者というような区別をせず、平等な参加者とみなす。

2・闘争の提起した問題や、闘争形態の身体化~内在化をめざし、物理的なバリケードが解除されても、時空間を選び、変幻自在に出現して活動する。

3・自らが創り出しうる最も深い情況に存在することによって引き寄せられてくる一切のテーマを、その瞬間のテーマとする。

4・自分にとっての必然的な課題と情況にとっての必然的な課題の共闘としての全共闘運動の概念を確立していく場としてとらえる。

5・幻想性の動きが最も緩慢かつ深刻に展開される階級闘争としての大学闘争の本質を迫求する。 (特に、〈報復と一行の詩〉に関して)

6・体制や機構の矛盾だけでなく、私たちの表現の根拠の変革を追求する。

 前記の各項目は、一九六九年十二月の東京都立大学・解放学校での報告として語られており、同年八月のバリケード解除~九月の授業再開強行、十二月に具体化してくる処分の動きに対応する切迫を帯びているから、同年二~八月のバリケード段階の方針やテーマ、一九七〇年代前半へ自主講座運動と名乗ることも殆どなしに連続~加速していく段階の方針やテーマとは勿論、位相差はあるけれども、本質を最も鮮やかに提示しえており、全期間にわたって(現在まで)、私の活動の基軸になっている。


 六九年末から七〇年始めに、教養部B109教室でおこなった自主講塵のテーマとしてビラで過渡的に総括しておいたものを、 〈平等な参加者〉としての大学側の広報委員会が第22号88ページに処分資料として掲載しておいてくれたので、再録しておく。

「α・表現の階級性…決定権、沈黙、ゲバルト、存在することの原罪性、 〈大学闘争〉の枠の突破

β・権力と空間…バリケード感覚、バリケード概念の運動、〈直前〉の空間性、時間性の〈滝〉、情況からの遠い夢の構築

γ・不確定性への準備…日付サイクルの〈ねじれ〉、全生活過程と〈武装〉、不可視領域の組織論、政治をこえる〈政治〉性、未知なるものへの〈祈り〉」


 再読して、あらためて驚くのであるが、すでに概念集のテーマとして取り上げるべきものが前史的に出現しており、しかも、これは一部の期間の断片例にすぎない。他の期間のテーマ系列表として発言集・続篇に六九年五~六月段階のものが掲載されている。バンフ群総体の中で、発言~討論の記録があるものは、直接よみ返していただくことができるし私も必要に応じてページを指摘しつつ論じていくが、記録がないものについて、前記の二枚のリストに再会したことを契機として、その中で現在的~未来的に応用しうるものを、この概念集の項目として記述していきたい。

 ただし、前記のテーマに取り組んでいた時間や場所で、私たちが抱いていた緊迫感ないし空虚感に、現時点で対応するのは何であり、それをどのように創り出し、媒介させていくか、という〈テーマ〉が、書いたり読んだりする際に不可欠であると考える。これは私の全ての表現についていいたいが、この場合とくにそうである。もう一つ、これは技術的なテーマになるが、前記のリストからのテーマや、全過程の自主講座でのテーマを詳細に論じ始めまうとすると、それだけで量的にも膨大になり、超時間の調査や構成作業が必要になり、概念集・2としての狙いが拡散しかねないので、概念集・3~を含む総体的な構想の中で別の方向から〈同じ〉テーマに交差した時にふれていくことにしたい。


註1.六〇年代末の各大学のバリケード内でおこなわれた自主講座的な試み(反大学を含む。)は極めて多様であるが、既成の大学の授業~学問体系への批判として、また、ストライキ期間中の空白を逆用して闘争の提起する問題に関して多くの人と討論する方向で企画されていたという共通点をもっている。しかし、それらの殆どが短期間で消滅したのは、企画を闘争総体に対置する程の構想が困難であったためと、バリケード解除~授業再開の原動力である単位制度への対決姿勢を欠いていたためである。

2.批評集・γ続篇の刊行後に、神戸外国語大学で闘争に関わった人たちの機関誌である第二次「原点」2号(一九七三年四月)の小川正巳氏の文章「大学の中の大学」を読んだ。小川氏は、六九年五月に私が非常勤講師を解雇された段階の教授会メンバーであったが、私の自主講座概念を当時は擁護しきれなかった反省をのべつつ、その後の処分~裁判過程(処分理宙や起訴理由に〈自主講座〉という概念が全く用いられていない意味は重要である。)に参加して、自主講座が「すべてを浮遊させるものであることがわかり、既成の権威(者)が浮動しはじめるのをみて感動した。」と、私の気付かなかった動詞を用いて批評している。希望者にコピー配布可能。

3.七一年六月段階の湯浅教養部長の談話(批評集・β篇)によると、「松下らの自主講座グループは、紛争の初期には問題提起者としていくらか存在の意義があったが、現時点では大学改革の具体的なイメージと方法を全く持たない狂信的な暴力的集団に類すると思わざるをえない。新しい大学をつくることには何らの貢献もしないナンセンス喜劇集団だ。」なかなか良いセンスの批評で、気に入っている。