無力感からの出立



 私が無力感にうちのめされた時の光景を、色彩の記憶にふれつつ開示してみる。

 一九六九年三月一日の午後に、封鎖解除のデモを指導していた兵庫県の共産党幹部二名が、神戸大学本部正門前から教養部のバリケード内に連行されたが、自己批判を拒否したため、学外の反戦青年委員会を含むバリケード内の入々は、大衆的な糾弾をへて追放する機会を失ってしまい、その間に奪還に押し寄せた共産党系の数百の武装集団および、監禁の告訴を受けて捜索のため立ち入ろうとする機動隊、それらと交渉を続けつつ釈放せよという呼びかけをおこなう大学管理者…を歩道橋を隔てた反対側の路上に見ながら、バリケード内では各党派の色とりどりのヘルメット部隊(それぞれ一桁)が、恐怖と孤立感を振り払うかのように鉄パイプを地面に打ち付けながら広場で示威行進を繰り返した。私は翌朝まで一人きりの研究室で過ごしていたが、すぐそばの研究室に目隠しをされて移されてきた二名が学外のセクトの指導者から激しく殴られている、と知らせてきた見知らぬ学生の不安そうな声を、バリケードの外の切迫したざわめきと共に聞いた時に私の内部で冷えていった血の色と、間もなく至る所で吹き出すであろう血の色の断絶と連関。

 同じ年の七月十二日に、バリケードを解除するセレモニーとしての全学集会が大学管理機構の最高責任者の主催によって「一万人に及ぶ全学の構成員が充分に討論できる広い場所」として、六甲山系を切り開いた神戸西部の(機動隊の演習場として使用されている)造成地で開催された。雨もふらず、電車を止めることもできなかったため、やむをえず会場へ非武装のデモで〈参加〉した全共闘派は、鉄条網と断崖を利用する機動隊による多くの逮捕者や負傷者を出しながらも、数十名が、約三千の秩序派を集めて開会し始めた演壇にたどりつき、揺さぶり、砂を投げて、数時間予定されていた「討論」を数分で中止させた。しかし「充分な討論」は時間的にも、表現の根拠としても全く存在しない(私は、数日前に〈全学集会加担者の藷君へ〉というビラを作成し、当日も配布していた。)にもかかわらず、火炎ビンを用いる徹底抗戦(約一ヵ月後、八月八日に予定された全学封鎖解除への先制攻撃を意図する前日の八月七日の六甲登山口付近の解放区化~機動隊との激突として具体化される。)があろうとも、石が坂を転がり落ちるような封鎖解除の自然重力的な動きが開始されたと直観した時の、奴隷を虐殺する競技場を連想させる広い「会場」の砂の色と、消え失せたい想いに苦しみながら一人で降りて行った夕暮の須磨海岸で波に洗われていた砂の色の断絶と連関。


 最も印象深い無力感の楕円の二つの焦点の意味を分析すると、前者の場合は、 〈 〉を媒介する表現を創り出した空間にいながら(まして約一ヵ月前に〈情況への発言〉をここで書いていながら)敵対的な集団相互の衝突を目前にして何もなしえず、バリケードの内在的な根拠が、バリケード内の全構成員の意志一致によるのではない行為によって失われつつあるのに、それを転倒しうる言葉をまだ持っていないことに気付いたからであった。

 後者の場合は、長い討論過程や必然から無期限のバリケード・ストライキが持続していても、卒業資格や秩序復帰のタイム・リミットに迫られた際に多数者(および、それに依拠する管理者)が示す、なりふりかまわない幻想性圧殺のすさまじさに対して、私が、数年前に幻想的な砂の荒野を歩いている時に発見した〈 〉 (言葉を〈 〉で包囲するのでなく〈 〉そのものを扱うことにより世界を包囲しうることを告げられた私は何かに感謝しつつ倒れ伏した。)のみを手にして、かれら総体と戦わねばならず、この武器の効果は今すぐにはゼロに等しいという自覚から生じていた。

 私は、可視的なバリケードが解除され、〈神戸大学〉闘争が頂点を過ぎたとみなされた六九年九月以降に、やっと本格的に戦い始め、どのようなテーマをも避けずに徹底的に関わり、やっと基本的な情況の基底に足をつけて現在まで歩いてくることができているが、これは前記の無力感をいつも忘れずにいたからこそ可能になったのであることを、ここでのべておきたい。この無力感から出立した私が現在まで見てきた色彩については、文字ではない水準で描きたいし、一方、私が意図しようとしまいと文字を含む表現に現れてしまってもいるだろうが、基本的に〈 〉色であるのはいうまでもない。


註1.藤原定家が、紅の旗を押し立てて戦争するのは自分の関心の外にある、といって歌に専念した~できた状態は現在と条件が異なるとしても、かれが不可避的に戦闘に巻き込まれても、そう呟いたのであれば、積極的に評価しうる。世界的な規模における〈大学闘争〉の情況においても、意識的・方法的に関わらずに過しえた知識人(大学関係者とは限らず、言葉に関わりをもつ全ての人)が存在するならば、一つの条件をつけてではあるが、その軌跡自体が闘争の意味を測定する座標軸として意味を持つであろう。一つの条件とは、自己の存在の様式の無力感から、どこへ、どのように出立したかを、私の概念集に対応する位相で開示してみせることである。

2.この項目の無力感は、集団的~社会的な原スターリニズム・ファシズムへの対処の水準で扱っている。従って日々の生活過程における一瞬ごとの無力感については捨象しているが、しかし、前記の無力感への対処の仕方で後者の無力感へも対処していること、それは全ての人にとって共通しているであろうことを付け加えておく。

3.かりに私が異なった条件で〈一九六九年〉を潜ったとしても、異なった媒介を経て〈同じ〉軌跡をたどってきているであろう。いいかえると、私は大学以外のどの分野にいても、そこからはみ出しつつ無力感からの出立をしたであろう。そして、それ故にこそ、自分が具体的に媒介せざるを得なかった経過、とりわけ大学内での共同的な活動の現在的な意味を正確に対象化しなければならない、と考える。次項以後のいくつかで、それを試みたい。