概念と像の振幅

概念と像の振幅



 概念と像は求心と遠心の関係にあると仮定してみる。どちらかが求心か遠心かではなく、ある関係性の中で対象を把握しようとする時、対象が概念として現れる場合には像が求心的あるいは遠心的に、対象が像として現れる場合には概念が求心的あるいは遠心的に想定されうるのではないか、ということである。そして、私がやろうとしているのは、概念集を構想してきた過程で現れてきた像の動きの追求であり、それを概念集の続編ないしあらたな・・・集(映像集でもよい)にしていく試みである。

 (ここまでワープロで打ってから、数週間、別の作業をして、再び前記の続きを打とうとして、この瞬間に浮かび上がるものを、天皇の葬儀の時間帯に、まず記しておく。)

 昨日の、ある会議で、ファシズムの概念ないし像がテーマになった時、天皇の葬儀に関する発言が全く出ず、私も発語せず、むしろ、ゆたかさについての議論に展開していったのは何故だろうか。そして私(たち)は本当にゆたかになってきているのだろうか。生活においても、表現においても…。私個人については、基本的な貧しさが持続しており、職業的に保証される物質的な基盤や、収入の上昇率から排除されている。

 私個人ないし獄中や底辺の人々を統計的に無視して、現在の日本国籍を持つ人間総体の平均として把握すればどうか。明らかに、経済的にも技術文明の水準としても(従って幻想性の活動としての表現にとっても)ゆたかになっており、その影響は私個人ないし獄中や底辺の人々にも及んでいるのではないか。しかし、そう考えても、内心の否定の感覚を否定できない。それは日本国籍を持つ私(たち)が、それを持たない人々の犠牲の上でゆたかさを味わいえているという重い事実からやってくるだけではない。

 ゆたかさ(や貧しさ)について、人間中心の発想で論じる時に生じる空洞からこそ、やってきているのではないか。(そういうことで前記の重い事実の比重を減殺しかねないとしても、最終的により重く背負うために、まず、このように仮定してみる。)

 ゆたかでない、とか、貧しさからの解放と叫んでも、あくまで、人間の独裁下での主張に過ぎないのではないか。この星の人間を除く生命体の総体にとっては、事態は貧しさどころではない虐殺の過程であろう。(環境破壊、原発、肉食、動物実験、…)

 このように発想することも、人間の言葉である。そうであるとして、例えば、死刑判決が確実に予測される人間が裁判過程に交差して表現(文書~こ行為を含めて)する時の表現の根拠と、強いられる仮装としての法的な言葉の落差を想定し、この落差を人間と生物総体の落差との対応において方法化しうるならば、人間の言葉で前記の主張をおこなうことに意味があるだろう。いや、遅すぎる試みであるのかも知れないのだが。

 遅すぎるかも知れない試み…その必要性は至るところに生成しつつある。私(たち)の作業は、これらの総体をこそ、新たな、というより最終的なファシズムの原基のゆたかさとして感受しつつ開始されなければならないのではないか。同時に、この作業が眼前の糾弾しやすいテーマにのめりこみ、他者を引き込もうとする際の退廃にも自覚的でなければならないのではないか、という予感が、昨日から今日の私の沈黙の底に流れている。この流れや像は、私をどこへ運んでいくだろうか。