世界の作品化から見たオウム

世界の作品化から見たオウム



 何かの手段を用いて世界を再構成しようとする試みをおこなう場合、言葉を用いて作品化する場合も含めて、その作品化は、本当は世界を崩壊させかねない危険を潜っている。罰せられないのが不思議なほどに…。

 作品化の力が具体的で大規模であったからこそ、オウムだけが罰せられつつあるに過ぎない。しかし、オウムの特性は作品化の力が具体的で大規模であったとはいえ、作品化の根拠に被抑圧存在総体の位置から逸脱している面が多すぎ、教団と国家の対立構造を単純に固定してしまったために、被抑圧存在総体の批判や共感を引き出し得ないままに国家が独占する罰を受けつつある。作品化は危険を秘めているとしても、作品化への衝動は、その不可避性を世界の矛盾から重力のように受け止めて発生してくるのであり、それ自体を罰すること、まして国家が罰することは誤りである。問題は、世界の作品化が世界をより美しく生きる喜びに満ちたものにするために役立つ方向でなされているかどうかを被抑圧存在総体の位置から判断することである。

 宗教の領域から世界の作品化を試みる場合、救済という形態をとるのは当然であるとして、その具体化に障害となる人を排除~監禁したり、消去~殺害するとしても、その方針は全教団のメンバーの対等な討論の場で検討し、選出される実行者は実行後に同じ処置を受けるいう原則を確立しておくならば、これまでいかなる国家も反国家集団もなしえなかった救済をなしうる証明となる。かりに、武装闘争(ないし毒ガス散布)を計画する場合も、前記の原則を潜って実行されるならば、その方法や根拠は別として、画期的な世界の作品化の一形態であると私は考える。仮装〈信徒〉としては次のように批判するが。・被抑圧存在総体の位置~視点を潜らない回路からの救済計画は、よりよい世界の構築としての作品化ではなく、被抑圧存在総体にとっての救済にならない。・作品化に参加しうる主体が閉鎖的な教団メンバーに限定されており、その閉鎖性を拡大したままの救済は世界の解放としての作品化の構想と矛盾する。・作品化の過程で用いる技術が現在の国家が用いるものと同じ場合は、少なくとも廃絶プランの明示と共に用い、経過を公表すべきである。

 オウムの事件を世界の作品化の試みの崩壊として把握し、各人が自分の作り出しうる作品を未出現の表現史の中に位置づける作業が緊急に必要ではないか?これが開始されるならば、オウムの事件も、その過大な錯誤にもかかわらず、少なくとも未来の作品化計画への示唆を無意識にせよ提出していると評価されうる根拠を持つであろう。

〈世界の作品化から見たオウム〉への註ーー表現集1(88年8月)にも掲載されている作品〈六甲〉は、その作品化に関わる姿勢や方法自体と共に生き始めることを意図しており、特に第六章は、第五章までに出現したテーマや、それに出会いつつある人々と共同の作品化を目指している。〈世界の作品化から見たオウム〉に関わらせていえば、〈六甲〉の読者は、作品化を持続する実行者として実行行為と同じ処置を受けることを了解している者に限られる。