オウムがもたらした概念の位置



 オウムがもたらした概念の一覧表や解説ではなく、オウム関連の概念を、これまでの概念集シリーズの範囲から把握する際の距離感として取り出してみる。 オウムを論じる際に用いる概念には、当然のことながらオウムが多用する概念が含まれるが、それらの殆どはオウム以前に仏教(特に密教)やヒンズー教の概念として既に日本の宗教界などでは使用されてきてはいるが、その用法がオウム的に強調~変形されていたり現実の事件に関連づけられたために全社会的に知られてきたといえる。オウム、ポア、グル、ヴァジラヤーナ、チャクラ、…などを代表例とし、ホーリーネームなどを加えると数十個の印象的なものがある。一方、少数ではあるがカタカナの概念でもハルマゲドンのようにキリスト教からの用語、イニシエーションのように英語をそのまま使用している場合もある。(教団内の位階を示す漢語的造語も知られているが、別の機会に論じたい。) ここでは私たちが刊行してきた概念集シリーズの目次のタイトルに出てくるカタカナ=外来語と比較するために列挙してみると、バリケード、フィクションパタン・ランゲージ、ストライキ、オーパーツ、ゼミ、シンポジウム、メニュー、ワープロ、プロテスト、ゲーム、スピット、モアレ、ヴィジョン、コンテクスト、モラトリウム、チューブ、メドュトピア、ワードマップ、ナターシャ、プロナタル・アンチナタル、トライボロジー、ライフライン、オープンスペース、エントロピー、ボランティアがあり、傍線をつけた概念のように新たに造語されたものの紹介もあるが、それらを含めて古い西洋系列の言葉による概念に関連しており、この事実が示唆する偏差の対象化の必要性を感じている。

 ただ、この偏差は、東洋系の宗教概念やオウムの活動に対して概念集シリーズが無力であることを必ずしも意味しない。偏差自体が相互的であるという以上に、概念集シリーズは、カタカナに限らず現在の日本~世界で流通している概念総体の中から再検討したい概念に注目したのであり、その選択範囲が既成概念群総体の中で大きい偏差を持っているとしても、その度合は既成概念総体の再検討~転倒の仕方と対応しているのであるから、取り上げる契機としての言葉が西洋と東洋のどちらに由来するかは概念集シリーズの力量とは〈無〉関係である。副次的に論じる場合に由来の取り上げ方が問われるとしても。 
 むしろ、カタカナを含む流通概念総体を再検討する方法をオウム問題へ応用する場合の効果は、言葉の由来を超えて、既成の知識人や宗教学者によるオウム論、更にはオウム真理教のなしえない領域に届きうるという確信がある。そうであるとして、その領域をさらに拡大~深化していくために、次の点に留意したい。現実に流入しているオウム関連用語をまだ出現していない概念で〈 〉的に変換してみることと、オウムにより現代日本社会に空海の時代以後突然のように流入した宗教概念の多彩さと激しさが社会の深層に与える無意識の影響を注意深く計測していくことである。変換と計測…その応用。

 オウムがもたらした概念については、オウムが使用した概念を、それ自体として論じるだけでなく、オウムを論じる際に私たちが使用する概念(の範囲やレベル)の変化を基軸として把握すべきである(従って、この号の目次に鮮やかに示されている)ことに気付きつつある。そして、概念集5の〈包囲の原ヴィジョン〉の次の表現を切実に想起した。
 「私たちは大へん奇妙な情況に生きている。自分の納得しえない言葉ないし関係によっても一応は生きられるし、今ここにある状態が最も現実的であることを大多数の人が納得してしまっているようなのだ。」で始まるこの表現(続きは後に再録)の基底ないし軌跡を、1月17日の六甲大地震以降に、さらに3月20日の地下鉄サリン事件以降に、私たちは無意識かつ大規模にたどっているという気がしてならないのである。私たちは、どれ程激しい体験や見聞を経ても、しばらくすると慣れてしまい、現状を肯定し前提したレベルでだけ発想してしまうが、この傾向は現段階で加速されているのではないか。この表現は、仮象の現実に自足しかねない原因を全共闘運動の敗北との関連で把握しているが、これを地震やサリン以後の加速性との関連で把握を深化させていくのは不可欠であるとして、同時に95年段階の特性としてだけではなく、戦後の50年間の中央の均衡点と両端(45年-70年‐95年)に交差している〈戦争〉概念の連続性差異として追求し続けたい。
 なお、概念集5の〈包囲の原ヴィジョン〉で言及している表現〈包囲〉は表現集1に収録しているが、〈六甲〉と対をなしつつ未来の〈全共闘〉の応用を待っている。


(参考表現)  私たちは大へん奇妙な情況に生きている。自分の納得しえない言葉ないし関係によって も一応は生きられるし、今ここにある状態が最も現実的であることを大多数の人が納得し てしまっているようなのだ。納得せず、これが仮象であることを直観しつつも、外見は何 もなしえないまま耐えている少数者も確実に存在し、決してなくならないであろうが、そ の数はなだれのように減少している。このくなだれ〉現象はいつ始まったのだろうか。私 は、幻想性と現実性の矛盾が最も深刻に問われた69年以来の闘争が鎮圧され、秩序化が完 了した仮象を帯びた時に始まったと考えている。この闘争に参加しようとしまいと、無視 しようとしまいと、世界のどの場所についてもそうなのである。なぜなら、69年以来の闘 争という仮装形態で問われてきたのは、人類にとっての現実過程と幻想過程の比重の転倒 に際して何をいかに変革するか、を主軸とする意識~言語発生以来の衝動であった。救世 主の生誕や戦争・革命による歴史区分や、太陽の黒点の数や快感物質から説明しようとする文明論などを遥かに突破する事態に私たちは無意識のうちに突入してきたのである。この突入の段階は人間のつくりだした概念(科学技術は勿論のこと、生理や幻想を規定する全ての関係を含む。)が人間の制御を離脱しはじめた段階と一致しているが、重要なことは、突入とか離脱が人間社会の全域について現実に生起しているのに、大多数の人は仮象に過ぎないとみなすか無視していることである。これらの仮象の現実を包囲~解体していくための作業の出発点として、〈私〉たち総体の〈概念〉集を構想〜展開していきたい。                        概念集5 (91年7月)


刊行委員会の註:いうまでもないが、オウムは東洋やアジアの宗教概念を包括し代表しているわけでもない。概念集シリーズが東洋やアジアの宗教概念を論じていないわけでもない。