真実と虚偽の関係  (仮装の本質について)



 オウムに関連する事件の特性が既成の文明に対する否定の仕方の異様さであるとして、それに匹敵する異様さは、オウムの幹部たちが、事件の全体が霧に包まれていた段階、いや、関与が明確になりつつある段階でも(少なくとも逮捕前は)事件との無関係を主張し続けた姿勢(や、一種の透き通った表情)の異様さであるが、これを単にギマン性として切捨てることによっては重要な問題を見失うであろう。
 オウムの幹部たちの態度を批判し嫌悪する立場は次のいくつかに分けられる。
①やっているのに、やっていないと主張するのはギマンである。
②やっていないと主張するのであれば、逮捕されても否認(できれば黙秘)し続けよ。

①は大多数の人の感じであろう。ただ、その中で、自供の開始はよいことであり、もっと自供し反省せよ、国家は厳しく断罪せよ、という多数と、あれだけのことをやったのだから、もっと信念があるかと想像していたが、案外だらしがないな、と感じる少数に分かれるであろう。

②は①の少数派の中にあり、程度の差はあれ、反権力的な立場から発しているが、しかしその殆どはオウムの関与をほぼ認め、否定的な評価をした上で、権力への対処の仕方が自分たちに比べて不充分であるとする、いわば副次的評価と考えられる。

 この他に、③法廷で証拠や証言によって真実が明らかになるまでは逮捕前の幹部の発言を信じるというオウムの一般信者など極く少数もあるが、かれらも裁判の開始後は動揺して、殆どが幹部たちへの批判的態度をとり始め、①の多数派へ回帰するのではないか。

 私の立場は、②に重なる部分もあるが、それに収束できないのでこれを記している。

 ①から③に共通する評価の仕方は、発語を規定する共同性との関係なしに客観的な真実があり、それについてありのままに語るか虚偽を語るかで区分していることへの無自覚さである。②の人は権力との関係にやや自覚的であるとはいえるが、前記の問題を充分に踏まえているとはいい難い。

 重要な指摘をすると、私たちは発語を規定する共同性に利益になる場合の発語は全て真実であると無意識にせよ前提として発語している。その共同性がオウムの幹部(註ーー原型としては坂本弁護士事件の当事者)にとっては教団であり、真実の届く境界が教団の範囲と一致していることに気付けば、かれらの一見矛盾する発語を統一的に了解することができる。幹部たちの下部信徒への無謬性が不可欠であり、無謬性の維持に役立つ発言は、教団外の擬似的ないし敵対的な共同性(マスコミの番組や記者会見、警察の取調べ等)への発言の中に相手の立場からは虚偽とされるものが含まれていても〈正しい〉のであり、相対的客観性を超える宗教的真実であると、かれらは透明な表情で信じ、かつ断言できた。

 この視点は、発言についてだけではなく、教団メンバー、特に幹部たちの全活動について拡大して適用することができる。かれらにとっては、幹部グループと最下部の信徒の隙間に世界が包括されているのであり、他の共同性、とりわけ国家に対する戦争や世界崩壊=ハルマゲドンも教団の領域を維持するために必要な教団〈内〉の事件でしかない。このプロジェクトの実現に障害となる者はポアの名目で消してよいのである。…確かに異様な発想ではあるが、私たちが無意識の内に(家庭や職場や地域や党派や宗派やその他さまざまの小規模な共同性の中で)ささやかに実践していることを大規模に実践したに過ぎないともいえる。その徹底性のため国家に捕われ、獄中で分断され、生きて教団へ戻れない可能性を予感した時に、その段階の最も強力な共同性である国家へ帰依する発言を開始したために、獄外での発言とのズレが目立つとしても、このパターンを脱しうる人が、教団外に殆どいないことも確かである。

 前記の問題群の中で最も緊急かつ普遍的な問題は、現段階では虚偽であるように見えるとしても、より高次のレベルでは〈正しい〉と発言者に確信させる条件は何か、という問題であろう。私としては、次のように考え、生活や審理の中で実践してきた。

aーー被抑圧存在が抑圧してくる関係を転倒していく過程で事実と異なる発言をしても、過渡的に〈正しい〉。

bーー任意の主体が、時間・空間概念を含めて私たちの存在様式を規定してくる闇の力を対象化し転倒していく過程で事実と異なる発言をしても過渡的に〈正しい〉。

cーーa、bいずれの場合にも、過渡性を明確に報告し検証をうける未実現の場をめざす責任があり、そのことをa、bに関わる場へ公表していく度合だけ〈正しい〉。

 この視点からオウムの幹部たちに要請するが、あなた方の教団は社会的な被抑圧関係に置かれていた面があったとしても、あなた方自身が教団の下部信徒や教団外でポアした人々に対して抑圧する位置にあると考えていたのかどうか(aから)、時間・空間概念を含めて私たちの存在様式を規定してくる闇の力を対象化し転倒していく試みとして提起していたのかどうか(bから)、そのことを公表する場として何を想定していたか(cから)についてぜひ聞きたい。このように要請する前提(視点や方法論)に異議があれば再検討の努力は惜しまないし、このような要請に関連するどのような作業もおこなう。この要請を阻害する力に対しては共に闘う。そして、あなた方がこれまで何かを権力に対して供述してきたとしても、全てを破棄・否定し、私たちとの討論の場を国家よりも広い時・空間へ作り出していく構想を私たちと一緒に立ててほしい。

註1ーー率直な論議を展開している切連理作が提起している「正論」 (このページ右に転載)は、マスコミ好みのレベルに吸引される危険があるので、あえて批判しておく。真実と虚偽のテーマに関連して、かれは、オウムの発言は、こんな世の中なのだから外部に対して誠実である必要がない、というメッセージであると感じ、世の中に甘え切っていると批判している。しかし、そのような「正論」の持つ限界については先述したことから明白である。それなりの必然性と必死さをもって反論しているオウム側からすれば、かれらは、発語した言葉通りに(少なくとも発語を規定する発想を基軸として)考えているのであり、「世の中に甘え切っている」とはいえない。オウム側の態度を批評し転倒するためには、かれらの論理のそれなりの必然性と必死さに匹敵する論理を実践して突きつけていく他ない。真実と虚偽の二元論で片づく問題ではないのである。このことを自覚しているだけでも、私は(自供する前の)幹部たちや、今も困難な外報に関わっている担当者や出版に関わる人々を高く評価する。かれらは「嘘つき」でもなければ、「ああいえば上佑」と笑って済ますことのできる存在でもない。ただ、私は上佑氏よりも、むしろ、かれ以外の無名の信徒たちの内面の葛藤に関心がある。かれらが裁判開始後のオウム幹部たちの発言を聞いても体制的な発想に復帰せず、私の提起する方向とテーマヘ〈転向〉してくるならば、その人こそがオウム情況を含む戦後史の意味を包括しつつ超えていく契機に出会うであろう、といっておく。

2ーー南京大虐殺も、ユダヤ人大虐殺も「なかった」と主張することはできる。ただし、どのような根拠に基づいて主張しているか、その主張によって何を解放していこうとしているのかが問題であり、私はこれまで納得できる根拠や主張に出会っていない。また、これとは逆に「あった」とする主張を死刑制度や動物実験や肉食の慣習と関連づけて廃絶プランを提起する例にも出会っていない。

3ーーオウムの弁明の問題は、真実との関連だけでなく、別次元のテーマを引き寄せてくる媒介としても考察していく価値がある。かれらが意図していたかどうかはともかくとしてオウムの関与を否定する発言は、他の勢力や集団の関与の可能性を暗示し、かなりの説得力さえ持ちえたという経過は重要である。つまり、事件は復(素)数的に発生しうるという仮装性の本質が提示されたのであり、これは他の勢力や集団への注目が喚起されたことと合わせて、決して無駄なことではない。また、オウムの行為と権力の弾圧によって、権力の構造や矛盾が公開されたこともそうである。オウムの行為の功罪は、この範囲まで含めて論議される必要がある。



概念集目次へ