フィクション(続)



 概念集1でフィクションについて記述していた過程でも半ば無意識の中で感触をさぐっていた問題点を項目として記述してみると次のようになる。

αー例えば、様々な他のジャンルの理論の援用として成り立つ文学理論としてのフィクション論ではなく、文学理論や~理論の総体がそこから照射され、展開される位置にあるものとしてのフィクション論はいかに可能か。

βーファンクション(function 関数)論としてのフィクション論の条件は何か。

γー前記およびそれ以外のフィクション論を含めて成立の必然性はどこにあるか。

αについては、筒井康隆がすでに「文学部唯野教授」(90年)などで期待をのべているが、のべ方自体の限界や、その後の連載小説(92年から朝日新聞)の出来ばえをみる限りあまり期待できない。むしろ個別のジャンルを超えて示唆的なのは、栗本慎一郎の「意味と生命」(88年)における〈X〉の提起である。かれはマイケル・ポランニーに依拠し、かつ発展させつつ、人間にとっての世界ないし対象が言語や科学の根底的変換の後に別の存在の様式として確認されうること、その別の存在の様式はすでに〈ある〉のだが視えないだけであること、しかし、我々の用いてきたのとは別の意味ないし生命として〈X〉と表現しうることを指摘している。この指摘はすぐに理解され応用されるとは到底かんがえられないが、フィクション論のみならず任意のー論にとって深い影響をもつであろうことは記しておく。基本的な限界があるとすれば、〈X〉を自分の存在で展開しうる経験や方法の未成で、それは既成の学者ないし思想家のレベルで判断する限り欠損とはいえないかも知れないとしても、〈69〉年以降はそれではすまないのだ。

βについては、前述の限界の突破としてものべると、関数を構成する変数の取り出し方において、①変数自体が現実の総体や主体の関わりとの対応で変化する度合を包括しているか。②任意の主体にとって、時間差はあるとしても、その止揚を含めて対等な回路として公開されているか。③関数における等号(イコール)の左辺と右辺が可逆的であるように、変数を取り出す主体が逆に変数から取り出される場合の条件を措定しているか。という三点が、この項目を論じる場合の基本的な条件であろう。

γについては、世界史における現実過程と幻想過程の比重の後者への雪崩込みという、大学闘争(を指標とする情況)の特性について概念集1で指摘した事態が根底にあるのは確かである。表現過程の指標としては、これまで殆ど奇妙な記号としてしか評価されてきていない〈 〉や{ }が出現してきた意味や、それの創り出してきた生命の現在を把握しなおすべき段階にきているのは間違いない。この作業が遅れている責任はだれよりも私にあるのだが、たんに怠惰のためでもない。没入して我を忘れてもいたのだ。今後の共同作業に応用したい。