概念集・1   〜1989・1〜      

     宙吊り

 この概念 に関連するヴィジョンを列記してみる。

a.法廷の証人席に立って質問を待つ瞬間
b.裁判所から来た特別送達などを未開封のまま別の提起に応用する過程
c.ある重要なテーマ群の変数が複数あるとき、一つの変数以外を定数として扱う方法
d.死刑台から奈落へ落ちつつある人間を救う手段が見つからない絶望の状態
e.非存在することによって、関係性を微かに浮かび上がらせようとする時の他称
f.情況と対等の意味を待たせうるテーマについての作業を、もう一人の〈自分〉に委託しうるまでの模索


 これらのヴィジョンは、メモを準備したり、考えをまとめたりせずに、宙吊り状態の意識でワープロに打ってみたのであった。その後、批評集や発言集〈 〉 版などの註〜序文を読み返している時に。
 「神戸大学闘争史」発行過程の宙吊り
 原本の宙吊り性や、解雇をめぐる宙吊り状態
に ついて、すでに触れていることに気付いた。これまで発表してきた全表現について読みかえしてみれば、もっと多彩な使用例がみつけられるであろう。そのため に読みかえしていくのは楽しみであり、全概念について、そうしていきたいが、同時に、読みかえし、再発見するまで意識からはみ出していた〈宙吊り〉情況 が、どこから発生し、どのような波動で私たちを浸しているのかを見極めたい。それを媒介して初めて、前記a〜fをバネとする未踏領域への応用も可能になっ ていくであろう。
(概 念集・1 p20)

      パタン・ランゲージ

 この概念 を知ったのは、同時代建築研究会の企画である「ワード・ マップ  現代建築」の項目案のうち、内容は判らないながらも引力を感じたものの一つとしてであった。そして、この概念を表題とする本(カリフォルニア大 学バークレー校の建築科救援、クリストファー・アレクザンダー)の翻訳(平田 翰那)を概読して、次の点に興味をもった。

 1977年に 前記の本を刊行するまでの8年間(つまり1969年以来)、アレクザンダーは、ある水準のコミュニティ内の全員が参加して町や住宅を作る場合に必要な原型 =パターンを253項目にまとめ、それらの各項目の関連を、言語における文法のように位置づけようとしている。(ただし、品詞〜センテンス水準の対比では なく、いはば基本文型における文節や修飾句の相互関係の水準の比喩として把握した方がよい。)

 最初に、コミュニティの総体を規定する項 目群、次に、町の交通〜道路の骨格についての項目群、その後に、住宅設計、住宅相互、住宅内、部屋、様々な生活感性に対応する空間的ゆらめき・・・に関す る項目群と要約しうる流れがあり、大きい規模のパターン群から小さい規模のパターン群へ向かう。このラングージを使いたい人は、それぞれのパターン群から 自分に役立ちそうなものを選んで自分の計画のために用いることができる、とされている。 私なら、どんな項目を選ぶか、チェックしてみよう。
1・ 自立地域、8・モザイク状のサブカルチャー、25・水への接近、28・中心をはずれた核(活動の接点)、43・市場のような大学、98・段階的な動線領 域、111・見えがくれの庭、151・小さな集会室、204・開かずの間、247・隙間だらけの舗道といったところに印がついた。

 もちろん、具体的な建築技術に関連するパターン群をいくつもパスしてチェックしているから、コミュニティを支える建築のイメージには遠いが、ある感じは 伝わるだろうか。

  アレグザンダーの他の著書や設計を全く知らずにいうのであるが、かれのパターン・ランゲージには、60年代末のアメリカにおける大学闘争の反映があるよう に思う。というのも、前記の項目をチェックした後で、私は、69年の日本のバリケード的光景にどこかで隣接する項目を無意識的に選んでいることに気付いた からである。かれも前記43の解説で、思想のマーケット化や空間的分散化、だれでも講座をもったり授業を受けたりできるイメージをのべている。204を置 く感性も、逆封鎖空間と関わりのある私に親しい。

 しかし、パターン・ランゲージ論の限界ないし未解決の領域の気配を私にどこかで感じさ せるのは、かれがパターンやランゲージが不可能と化する場の〈絶望〉をくぐっていないことから来るのではないか。かれが現在の建築技術を一たん根底から疑 い、大学で職を持たずに、もう一度パターンのランゲージを構成しうる時に発見する方法と、最初の方法の共通部分が残るとすれば、その共通の核こそが、大学 闘争以後のコミュニティを、闘争の世界史性の流れに沿って物質的に変えていくのに役立つであろう。
(概 念集・1 p23)
参 考url(野原による):
http://ja.wikipedia.org/wiki/パタン・ランゲージ
http://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・アレグザンダー
http://www.amazon.co.jp/パタン・ランゲージ―環境設計の手引-クリストファー・アレグザンダー/dp/4306041719
 パタン・ランゲージ—環境設計の手引 (単行本)
クリストファー・アレグザンダー (著), 平田 翰那
「基は建築家 Christopher Alexander による.相互に関連したパターンの集合.個々の問題の解決法であるパターンを組み合わせることにより,より体系的に問題を解決に導けるようにしたもの.
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%BF%A1%BC%A5%F3%A5%E9%A5%F3%A5%B2% A1%BC%A5%B8」
デザイン言語基礎論 第10回:パタン・ランゲージ  担当:脇田 玲
http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2005_22687/slides/10/
松下はあげていないが、「ちびっ子のほら穴」天井は低くし(1.2m〜0.74m)入口も小さくする、なんていうのも興味深い。
http://www2.gol.com/users/okuyama/web/ptn.html
『パタン・ランゲージ』 写真が多くパタンを理解しやすい。

      科学

 大学における研究分野は、人文科学・ 社会科学・自然科学の三つの系列に統括的に区分されており、研究者は従って、必ず何かの分野の科学者である。これだけでも科学ないし科学者は批判的に把握 すべき概念である、と断定するのは反ないし非科学的であろうか。

 東大全共闘代表とみなされ、自らもあえて否定しなかった山本義隆の 「重力と力学的世界」(現代数学社1981年)は、副題が「古典としての古典力学」 であり、大学の外で研究者であろうとするかれの、科学(史)論としての大学闘争総括としても読むことができる。過ぎ去った形容詞でない古典としての過程に 生命を注ぐ人がここにも存在する。

 天体運動の円秩序と等速性はヨーロッパ古代以来うたがわれることがなかったが、ケプラーの楕円軌遭と非等速性(面積定理に対応する速度の変換)の証明 は、その後の世界観や自然観に決定的な影響を与え、ケプラーの重力概念はニュートンにより厳密な数学的原理へまとめられていくが、前者が魂や霊の概念との 関連において重力をとらえるのに対して後者は神学原理の中でとらえる点において前者と同様に中世の余波を受けているとはいえ、現象から帰納して説明するの が対照的である。また、現在からみると意外であるがガリレイは天体間に働く重力を否定し、天体の円運動をあらためて主張している。これが近代への過渡期に おける人間の側から自然を読みこもうとした際の不可避的な認識例であることを、著者は説得的にのべている。また、重力がニュートンとその後のフランス啓蒙 主義では全く異なる関係性の中でとらえられ、後者が科学の機能を近代的認識や技術との対応において重力を関数概念として抽象化する度合で普遍性を獲得し、 現代もその流れの中にあることが多くの資料や考察をふまえて示されている。

 科学理論の完成は各時代の〈あいまい〉ともみえる多くの設問を捨象することによってなしとげられるものなのか、という著者の悲哀を帯びた後記の呟きは、 共同利用研究所と称される東大物性研究所が著者に対してなぜか図書の閲覧を拒否したことの指摘と共に印象的である。私たちは、著者の批判的視点を、全共闘 運動の提起した問題を圧殺して正常化をはかった大学および、大学に象徴される学問体系〜社会構造を、歴史的な原初性から転倒する実践的視点へ応用しうるで あろう。

 この項目を考えている間ひびいているヘルダーリンの詩「ケプラー」がある。1789年に、同じテュービンゲン神学校で二百年前に学んだ先駆者に対して書 かれた詩の中から星々の間を歩くニ人の足音が聞こえてくるようである。私たちは、この詩の二百年後、多くの先駆者の足音に近づく努力を忘れ、かれらが不可 避的にかかえこんだ設問があることに気付かずに、成果を技術的に利用しているだけではないのか。私なりにいいかえれば、ケプラーの設問の一つは重力の本質 をマルクスが「ドイツ・イデオロギー」の序文で用いた方法と逆に、既成の社会や自然以外に求める志向であり、ヘルダーリンの設問の一つは幻想の異常が訪れ る時の力学的世界性であった。いずれも科学の未解決の問題に属する。
概 念集・1 p28

       単 位

 卒業資格を構成する各科目の内容を学生が習得したと学期末に教師から認定された時に
与えられる概念を意味するが、六九年段階においては、より切迫して大学構成員に意識さ
れ、機動隊の物理力と共に、あるいは、それ以上にバリケードを解除する要因であること
が示された。これに対する反撃の試みを列挙すると…

 (1)学生個々人の授業拒否(対応する自主講座などの展開)
 (2)教師個々人の授業拒否(教授会出席拒否などの業務拒否の一環として)
 (3)数人の学生の集団(まれに教師を含む)の授業介入〜阻止

が散発的に、しかし、闘争の原初性への注目を再現しつつおこなわれた。その後の経過は
一言でいえば、一定の対峙〜衝突をへての学外追放(処分〜起訴)であるが、勿論さまざ
まの対数的なヴァリエーションを作りだし、それぞれのかかえるテーマは。むしろバリケ
ードが可視的にある段階よりも深く広がってきたといえる。

 単位制度が改革されねばならないのは当然だが大学全体の改革が先だとか、国家を解体
してからでないと実現しないとか、大学闘争はバリケード攻防戦で終ったから他の拠点で
の闘争が必要だという見解は、ごく少数の例外を除いて、大学闘争を喩とする過程の深淵
に気付かず、闘争の意味を大学闘争以前に引き戻す力として作用した。

 六九年以前においても、大学が能力差別を強化する社会的機能をもっていることは指摘
されていたし、個々の授業のすすめ方、教材の選び方、単位認定の仕方などを、できる限
り教師・学生の立場を対等に近づけつつおこなおうとする試みもあり、授業ボイコットや
ストも日常的に存在した。では、前記(1)(2)(3)の特性は何であるのか。

 何かを見てしまったのだ。見てしまった個々の光景は、質問の圧殺や断念の強制や流血
の弾圧や〜というように異なるとしても、何気なく対処してきたつもりでいた単位をめぐ
る学生の執念や教師の社会的義務感の構造こそが圧殺や強制や弾圧の発生源であるという
直感と、単位制度に累積する人類史的疎外の感受において共通しているであろう。この構
造への異議の表明は無期限〜無限の時間性を帯びざるをえなかったし、単位制度にとどま
らず、幻想性の抑圧構造総体へ異議を拡大する空間性を帯びざるをえなかった。

 学外へ追放する力に抗して、原初的な闘争現場において問題の現実的接点を獲得する試
みも多彩になされてきている。学科内容についての討論においても他の授業の水準を越え
る成果を示しつつ…
 (4)単位に関連する討論を持続して一律評価を教師がおこなう。(全員x点を含む。
  私のおこなった全員〈0〉点は、獄中の学生から最も高く評価された。)
 (5)教師による単位認定権の放棄ないし一律評価を宣言した後の自由な討論・学習
 (6)学内外の任意の人々を対等の参加者としての成績(相互)評価〜記入〜提出過程
   の委託ないし共有(刑事事件有罪確定者や障害〜死者との共同作業を含む)


 たった一人の学生が粘り強く教師との討論を持続しつつ、その討論過程自体を履修科目
の内容に対応することを認めさせ、卒業に必要な全単位について実現した神戸大学のケー
スを殆ど唯一の例外として、前記の(4)(5)(6)の試み、特に単位を授業の参加者
全員によって出していく(あるいは出さないでおく)試みは、教師を共闘者として、少な
くとも黙認する者として確保しておかないと展開しえない場合が殆どであり、展開しえた
としても、学期(半年あるいは一年)の最終段階で、大学当局の不承認や、授業参加者の
内部対立により流産することが多い。さらに(主として教師の)処分の理由として仮構さ
れたり、人間関係が断絶したりすることも予期しておかねばならない。しかし、にもかか
わらず、これらの試みの半年あるいは一年の間に渦まくテーマは、あえていえば、大学な
いし教育機関の発生から現在にいたる全過程のテーマを集約しうるのであり、このテーマ
に対決することは、六九年以後も可視的には残っているように見える大学に対して批判的
な者(大学を離れて政治活動を持続している者にとどまらず、現在の知的体系に組み込ま
れている者総体を含む)の情況認識を測定する重要な物差し(単位!)である。

 とはいえ、私は、この物差しだけで全てを測定せよとか、このテーマに全力を注ぐべき
である、といっているのではない。ある激動と見える過程の要因の見掛けのみすぼらしさ
と実際の意味の巨大さが隔絶している例がここにもあり、このテーマに直接ふれないまま
生きてきている人々を幻想的に拘束している構造と必ず関連しているという予測からも、
生きにくさを感じている全ての人々からの、この物差しへの逆の評価と示唆を得たいので
ある。これは人間の言語や文明の総体に関わる提起でもある。

 単位(制度)には関心がないとか、重要でないとかいう人は、例えば次のテーマに不可
避的に直面する時にも、そういえるだろうか。

 生活手段として資格をとること、さらに、生活することを最優先する発想は、どこかで
必ず、既成の体制を支え、新たなファシズムを準備している。

 知識や技術に開する資格(特に国家認定の資格)を持つ者は、無償労働によって無資格
者に奉仕しつつ、資格を認める機構=国家を解体していこうと試みる限りにおいて〈ノア
の箱船〉に乗る資格を持つ。

 半年あるいは一年の期間ごとに自らの発想〜存在様式の根底的な変換を公表しない限り
〈自死〉したものとみなされてもよい。

  (その他の多彩ないい方は、直接討論で開示する。)

 このようなテーマに出会い、かつ、このようなテーマに他者や世界が不可逆的に出会う
回路を作ろうとしているのが、永続的〈大学〉闘争者の現在である。
概念集・1 p32-33


      n事闘争

 ある行為が、本来は統一的になされているにもかかわらず、何重にも審理の対象となる
場合に、それぞれの差異を逆用したり、審理構造の分裂・部分性を追求することにより、
審理の疎外形態を暴露しつつ、このような〈裁き〉をもたらす根源へ批判的に迫ろうとす
る方法ないし戦略。(nは、〈事〉のつく全概念との対比〜交換可能性を示す。)

  この概念が生成した時期は、一九七一年に、私に対する刑事公判、民事公判、人事院審
理が相互に関連性をもって眼の前に現れた段階である。具体的な特性としてのべると、

(1)懲戒免職処分の理由および過程と、起訴の理由および過程が重層しており、それだ
けでも、すでに相互の審理の関連は明らかであったが、
(2)さらに、大学=国が、私たちを活動拠点の一つである研究室から排除するための訴
を起こし、処分や訴の根拠を立証する位置に立ったことにより、各審理を実質的に統一し
ておこなわざるをえなくなり、
(3)最後に、これが重要であるが、刑事公判以外の審理では、私以外の任意の人が参加
人や代理人として同等の訴訟行為をなしうる、という規定を最大限に応用して、審理を他
の審理やテーマと統一して展開する回路を切り拓くことが可能になった。

 前記の各特性は、問題の発生現場における活動や思索に絶えず繰り込まれる方向で意味
を加重し、また、同じ闘争局面にある他の大学などにも応用され、テーマの深化や交流を
伴って大きい成果を上げてきている。

 ある審理過程が別の審理過程を卵のように生み出す例の一つを素描すると、

 七〇年処分に関する七一年の六甲における人事院審理の(傍聴席で私の代理人がパンを
食べたことを理由とする)永続的中断。

 八〇年に、それまでの神戸地裁における刑事・民事審理の成果を応用しつつ、人事院に
対する審理再開請求の行政訴訟の提起(東京地裁・民事に係属)

 前記の公判で敗訴しそうになった人事院は、八一〜八二年に審理を六甲で再開したが、
テーマ群の巨大さに耐えきれず、本格的審理の前に判定(処分の承認)

 八二年に、判定の取消と審理の持続を求める行政訴訟の提起(東京地裁・民事に係属)

 この訴訟に集積している、それまでの審理の意味を審理しえない地裁判決に対する控訴
審で、より高圧的に審理なしの判決を強行しようとした東京高裁・民事法廷において、

 八四年一二月一七日に生じた判決文を無化〜散布する行為がなされ、刑事事件となり、
その審理過程で、参加者の六九年以来の全テーマが、より根底的に対象化され始める…

 この段階で、n事審理は、たんに権力が振幅する枠を批判的に一周する過程で枠自体を
越える方向を獲得しているだけでなく、本来、人間の任意の行為が不可避的かつ極限的に
展開される時、必ず現在の幻想性構造の各矛盾の先端に触れるのであり、各矛盾の先端の
総体は〈 〉過程の原初性から最もよく把握しうる〈事〉を示している。
概念集・1 p34


         オーパーツ

 オーパーツ(ooparts)とは、out of place artifacts
「場違いな、予期しない地層から発見される、はるかな古代の加工物」を意味し、UFO
(未確認飛行物体)遭遇体験と共に、既成の学問〜支配秩序からは、論議することがタブ
ーとされたり、制約されたりしているが、それは不安〜恐怖の裏返しであろう。

 私自身は、記憶している限りでは、オーパーツを発見したり、UFOに遭遇したことは
ないけれども、それらを否定しないし、現代の文明を転倒していく要素のIつとして、積
極的に評価する。この評価の仕方は、既成の学問〜支配秩序が抱いている不安〜恐怖に対
応する面をもつだろうが、それ以上に、表現論的必然において確信しているのである。

 互いに動いている二点の関係は、ガリレイ変換やローレンツ変換によって記述すること
が可能であり、特に後者は、光の速度と時間の積ctを基準として変換式を書き換えると((ママ 「こと」のあやまりか?))
により、時間と空間を対等・交換の関係で把握しうること、すなわち、任意の二つの事件
に関して(1)同時に起きた事件か、(2)同じ場所に起きた事件 として見る座標系を
とりうることを示しており、かつ、多次元の時・空間の運動が三次元の時空間をスライス
する場合に、UFO現象やオーパーツの出現と認識されうる、という認識を導く。三→四
次元の変換における考察は、より多次元への変換における考察に際してより高次の認識の
変換が生じうる可能性を、数学的類推によって暗示的に表現しでいる。

 前記(1)、(2)の可能性や、オーパーツやUFOの存在への疑惑は、基本的に、そ
れらが因果律を無視して主張されている、とみなされるところからきているとして、三次
元の古典的な因果律を越える領域においては、疑惑は成立しえない。そして、三次元(な
いしモデル化された四次元)から高次の現象を扱う場合の限界的正確さが、不確定性ない
し確率の理論として私たちの前にあるに過ぎないのかも知れない。

 私たちが、まだ、既成の科学的な力と対等には方法化しえていない力ないし方向が確実
に存在するのではないか。今は、夢の中での記憶とか、予知能力とか、テレパシーという
ような過渡的な言葉でしかとらえられていない力を統一する場が…。それらの力が人間の
幻想性の構造と、その揺れに深く関わっていることに注目しつつ、同時に、幻想性の構造
や揺れに殆ど関わりなく出現してきている具体的なオーパーツの情報公開と研究が、天皇
の墓の発掘と同様に既成の学問〜支配秩序によって抑圧されていることにも注目したい。

 バリケードや監獄の中で、以上のべてきたことを前史的に構想していたことの意味は、
敵たちが考えているよりも重いはずである。既成の学問〜支配秩序の番人たちは、まだ、
〈 〉闘争過程における私たちの試みの〈オーパーツ〉性に気付いていない。このことを
示すエピソードを付記しておくと、バリケード内でおこなってきた自主講座を八〇年以後
に同じ場所で再開した時、教職員の一人は、「火星へ行ってやれ!」と叫び、拘置所では
時の楔通信が不許可であるのに反し、宇宙遺跡に関する本はフリー・パスであった。
概念集・1 p35

    落書き

  表現過程自体を表現する行為。私の場合の原初性を振り返ると六九年のバリケード感覚からである。八月八日の朝から神戸大学の封鎖解除が機動隊の警備下で予 想されたので、私だけが前夜からバリケードに存在して、明け方に、人間の気配はないが、ある切迫した何かの息づかいに満ちている構内を歩きまわり、生命体 としての空間に〈最後の〉あいさつをした。壁や天井や床には、墨汁やペンキなどで、さまざまな闘争スローガンが記されていたはずであるが、殆ど記憶にな い。むしろ、関心は、どこから機動隊が入って来るかということであった。逮捕は勿論ありうるとして、六ヵ月のバリケードで出現したテーマは不滅であるし、 そのことを一人でも公然と破壊者に示し、物理的以上のバリケードの開始宣言をしようと考えていた。持続的に自主講座をおこなってきたB一〇九教室で、たた み位の大きさの白い紙にマジック・インキで〈バリケード的表現〉と題する文章を数枚書き、黒板に一枚を糊ではり、ドアを出て、自分の足音だけが響く暗い広 場を横断して、反対側にある掲示板(ここに六ヵ月前に、初めてのマジック表現である〈情況への発言〉をはり出し、その後もずっと実質的に専用の掲示板とし て使用してきた。)に一枚をピンで留めてから、一箇所だけ灯のともっている最上階のA四三〇研究室にもどり、ドアの外側に最後の一枚をセロテープではっ た。窓から六甲山系に視線を投げると、宇宙遺跡でもある巨岩=油コブシに暁の最初の光が届き始め、しばらくしてUFOならぬヘリコプターが何機も飛来し、 バリケードの上を執拗に旋回して下の様子を窺い始めた。

     実は、これ以後の記憶はない、というか、退去命令を聞いた記憶~聞きうる位置に存在したという記憶がないのである。法廷でも、そのようにのべている。反 証もなされていない。記憶にあるのは、太陽が高くなった頃、ドアの外で紙を破る音がしたことである。出てみると、〈バリケード的表現〉が引き裂いて捨てら れていた。すぐに新しい、内容の異なる表現を作成してドアにはり、中で寝ころんでいる時に、また破る音がしたので出てみると、同じように捨てられている。 人影はない。建物全体は解除作業の騒音で満ちているのだが…。このような経過が繰り返された後、遂に私はドアそのものにマジック・インキで表現を記したの である。これは物理的解除によっては解除され得ないバリケード総体へ記した表現であり、その後の、B一〇九前広場への巨大な白ペンキによる〈 〉表現(こ れ以降、〈 〉広場と呼ばれ、現在も痕跡を確認できる。)や、教室黒板への表現(そのうち「く」の字形一二個、という呼び方で起訴され、判決では「〈 〉 型六対」とやや正確に表現し直されている〈〈〈〈〈〈 〉〉〉〉〉〉や、処分発表~立ち入り禁止通告後の研究室再占拠闘争に出現し、起訴対象とされた「六 甲空間は世界を包囲する」などの開始符であった。 (ただし、法廷では私ではなく、〈私〉の表現とのべている。)

     これらの、権力的には〈落書き〉と呼ばれる表現こそ、〈私〉が最も愛着を抱き、その接線方向へ、どこまでも固執する表現過程であり、概念集の試みも、その応用である。
    (概念集1・36)

      天然


 この概念集の他の項目における表現(軸=原論としての構造)の、行間としての源泉=背後域そのものが、声を発する時の、〈文体〉といってもよい。


 「天然」という言葉によって私達は、直感的に、自然概念をこえる領域への潜在意識を揺さぶられつつも、その内在的根拠をうまくとりだせないでいることが多いのではないだろうか。


 潜象物理〜相似象学の立場からは、次のように記述されうる。
人間や自然の側から(の判断や視野で)思考するくせをすべて転倒するとき、みえてくる。
ーー「自然」や「宇宙」が根源的存在では無く、外界に天然(アマ)=時間量や空間量に変換する根元的始元量 が在り、微分量として自然界の現象内に潜象(アマナ)として入り込んでいる ーー生命現象は すべて、刻々のアマとの対向発生。ーー


 楢崎皐月は「天然に関する問答」(1970・6・14)において、
「天 然は、自然理の支配する宇宙現象の範ちゅうには入らない。宇宙における現象背後の世界を天然界と云い、天然界は有限宇宙を恒に胎臓し、変遷的に生成して居 る、無限の始元世界を指して云う、自然を支配する自然理は、天然理の干渉を受けて成り立つ理であり。天然は、天然理に従う客観背後の潜態的潜象の範ちゅう に属して居ます。」 と述べ、アマ始元量の生成 還元エネルギーによる、科学物質文明を脱皮する天然文明を予見している。


 ところで 天皇の医師団が、仮装と誰にでも訪れ得る自然死との振幅域における闘いに入って、2か月以上が経過しつつある(1988・9:I9吐血発表開始)。
 自然やヨミヘの祭司(〜巫女)〜収奪であるばかりか、天然(アマ)をこそ収奪して形成さ
れてきた全〈天皇〉制過程--〈天皇〉制が無化され得る根拠を、私達は自らの自然〜関係概念を、根こそぎ転倒し得る度合でしか、実現し得ないだろう。
概念集・1 p37




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  1. 概念集・1   〜1989・1〜  
    1.      宙吊り
    2.      パタン・ランゲージ
    3.         科学
    4.      単 位
    5.      n事闘争
    6.      オーパーツ
    7.        落書き
    8.      天然
以上はこのファイル上の項目