インターネット概念の解体と再生のために

インターネットとは(秋本 治漫画より)
概念集・2「技術」より
 インターネット概念をコンピューターの技術的原理や実際 の使用・アクセス方法、応用範囲や今後の展望から提示し分析するよりも、インターネットを比喩的媒介として何かへ吸引されていく私たち個々人や社会総体の 失墜感覚とでもいうべきものへの考察が不可欠であるという気がする。
 何かへ吸引されるという場合の対比例として、新しい情報や技術の媒体であるラジオやTVが社会の一部にだけ姿を見せはじめた段階の、それらを購入するこ とが困難な多数の人々の驚きや憧れ、そして何年か後に自分も入手できた頃には、もはやそれを当然のこととしてかつての感覚を忘れている状態を想定するのが ふさわしいし、パソコンの進展からそれの結合〜拡大形態としてのインターネットが社会を包囲しても、前記のような推移をたどる面はかなりあると予測でき る。

 しかし、いま私たちが直面しているのは、前記のような推移からの類推をはみ出す領域であると思えてならない。その理由をいくつか挙げると、

 a-たんに新しい情報や技術の媒体であることにとどまらず、その媒体が各人の社会的な存在条件に不可避的に関わり、規定してくる、という予感がある。
 b-しかも、その機器について絶えず宣伝される利点や飛躍的な性能向上と、実際に自分が関わる場合に可能な使用範囲との間の大きい落差に対する疎外感が ある。
 c-接触しうる情報が多すぎて、選択〜応用する判断基軸が拡散し、自己と情報の均衡関係の流動ないし崩壊感がある。

 どのように対処していくかを考える軸として、すでに概念集2の〈技術〉論で提起しておいた3点から把握してみる。(このページ右に転載

1に関しては、かなりの任意の人に等距離に開放されているといえる。(経済的に購入が困難な人々や、生理的ないし法的な拘束状態にあるために使用できない 人々の問題を、等距離の開放のテーマに包括していく努力は同時に不可欠であるとして。)

2に関しては、自分の関心や労働条件のレベルで機器やネットワークの意味や有効性のレベルが決定されてくることを厳密に把握すべきであり、機器やネット ワークの新しさから逆規定されて対処するのは避ける方がよい。

3に関しては、この項目で提起していることに前記のa、b、cの比重が集中してくるという関係を重視したい。従って、3の視点からa、b、cの問題を把握 し直し、それを阻止してくる力とは1、2の視点から対決していくという態度が最も本質的であろう。

 3の視点からa、b、cの問題を把握し直すという場合、96年1月に刊行した〈概念集への補充資料〉12ページに転載した〈コンピューター社会が崩壊す る日〉が重要な示唆を与えてくれる。ここで指摘されている〈悪意〉との対決方法についてのヴィジョンを構想してみると、

 一つは、技術的な応用範囲とレベルの宣伝に対して、その技術によって現在の切迫する問題、例えば、この瞬間に世界に満ちている生命体が発している信号を とらえ、それぞれの間の情報交換〜解決への回路を設定してみよ、と逆提起することである。

 もう一つは、現在のコンピューターの原理である二進法のデジタル化(全ての情報を0と1のいずれかの記号に変換して分析・総合する。)を超えるような問 いないし方法を提出することである。e進法や、数や記号を超える〈 〉進法の構想…。

 もともとコンピューター技術は軍事技術に派生して発展してきたのであり、その出自に内在している文明論的な〈悪意〉に利用されるのではなく、逆にそれを 遊びの素材として止揚していくだけの実力を形成する必要があり、そのためには、相手の〈悪意〉を上回る〈悪意〉も必要になるかも知れない。ただ、後者の 〈悪意〉は自己目的ではなく、前者が潜在させている〈悪意〉を止揚する公開の回路の形成を目指しており、この回路こそが私たちの救出〜創出していくイン ターネットの基本条件である。(概念集12で論じたライフライン概念の解体と再生の試みとも対応する。)
ラプラスの魔 ラプラス変換の公式 参考:公式その2 
 関連して〈悪意〉とか〈悪魔〉について考えている時に想 起したイメージの一つを記すと、ラプラスの魔(このページ右の説明参照)の「宇宙のすべての物体の動きは把握〜予測可能である。」という発想は、「イン ターネットが最大限度に行き渡る社会では、情報の動きが全て把握できるから、その情報によって動く社会や人間の動きも把握〜予測可能である。」という発想 を導いていくのではないだろうか。いや、あえていえば、ラプラスの魔的な発想がインターネット概念の生成に深く関わっているのではないだろうか。そして、 ラプラスの想定に比べて確固とした現実の網として形成されているために、私たちは逃れることが困難だという絶望もある。しかし、ラプラスの想定が不確定性 理論(註2参照)によって崩壊するのと同様に、また、「宇宙のすべての物体」と「情報によって動く社会や人間」の位相の差のために、インターネットの万能 性神話も崩壊するであろう。ただし、人類史がインターネット概念に到進した意味は転倒的に引継ぎ応用していきたい。

 そのためにも、ラプ ラス(1749〜1827)については、その限界だけでなく、すぐれた達成(や応用可能性)の確認も必要である。すでに概念集4の4ページで少しふれてい るが、微分方程式の複雑な計算を簡単な代数計算ですませることを可能にした〈ラプラス変換〉の方法(このページ右の公式参照)は、私にとっては実際の計算 について便利である以上に、その発想の根拠が与える示唆として重要である。詳しい説明を飛び越えて核心のみを示すと、ある関数(x)を0から∞まで積分す る場合、多くの場合は発散するが、ラプラスはOから∞まで積分しても発散しないで有限値に収束するような関数(y)を見つけて、それをある関数(x)に掛 け合わせて関数(z)をつくり、それについて0から∞までの積分を検討することを媒介して元の関数(x)の性質の把握や計算を容易にしたと要約することが できる。私はここに無限に暴走しかねない現在の文明=関数(x)にとっての関数(y)は何かという問いを希望のように見出している。
Y=1/e^x のグラフ 参考:グラフ2(gnuplotで野原が作成したもの)
註1ーラプラス変換の発想を可能にした関数(y)は、原型として示すと
f (x)=1/e^x   であり、このページ右に描いてみる。自然現象の数式化には  e^x が含まれることが多いために、これを関数(x)に掛け合わせる場合の有効性が生じてくるのであろうが、これに対応する私たちの関数(y)をつくり 出し関数(z)として現代文明批判に応用したいと夢想している。

2ーラプラスの魔的な決定論は、限界をもつ過去形の理論であるとはいい切 れない。その理由の一つは、決定論を超えるとされている不確定性理論自体の限界である。これについては、東晃史氏が『ポスト「不確定性」文明の曙』で問題 提起しており、氏はラプラスには言及してはいないが、「観測の場」や「階層」や「意識の形成」の概念を導入して不確定性理論を再検討する姿勢は、私たちの 位置からラプラスの発想を再検討する意欲を喚起してくれる。それは氏の考えを深化させるためにも必要であると考える。

もう一つの理由は、 ラプラスのいう決定論の主語としての「超人間的知性」の問題である。この二百年の人類史は、人間の自由と平等を自明の前提として掲げつつも、実際には、さ まざまの「超人間的知性」を志向する主体やシステムの出現や支配を阻止できていず、これからも加速度的に力を増す可能性のあるそれらとの対決のためにも 〈ラプラスの魔〉概念は再度想起されてよい。

3ーインターネットの特性の一つは、各端末が中心となって情報を発信しうることであり、これ は「超人間的知性」の要素をもって一方的に情報を伝えてくる国家やマスコミよりもすぐれているといってよい。ただし、このような特性自体がインターネット をつくり出し、流通させている「超人間的知性」によって一方的に具体化されていることの意味を踏まえ、その逆過程と転倒を絶えず目指していくべきであろ う。

4ー電子機器は高度な感じをもつが、例えば地震や磁力変化に対して極めてもろいことも立証されている。従って、それらに慣れてしまう のではなく、それらがない状態で生きていくことを基本として、かつ製造〜使用の全過程に関わる距離を測定しつつふれることに意味がある。全ての機器や関係 についても、位相差を把握しつつそういいたい。

5-歴史的に見ても、文字や本や情報が一部の者による独占から社会的共有度を深めていくの はよいことであり、必然でもあるが、インターネットの技術の高度さや使用台数ではなく、それによる情報を全ての人〜生命体に役立つ方向で生かす方法の確認 と共有の度合でこそ、社会的共有度は測定されるべきであり、この視点からは、まだまだインターネットの社会的共有度はゼロに近く、転倒していく積分方法の 発見が必要である。

6-どのような機器も組織も、それに関わる人のレベルとの相乗積の機能しかない!
チァクラ図・気道図  参考:チァクラ図(アーレフによる)
 註-インターネット情況を論じるのは、オウム情況との同時代性を探るためでもあった。
オ ウム教団が科学技術、とくに電子機器を使いこなし、製造〜販売までおこなっていたことはよく知られているが、この特性とオウムの信仰や修行の関連はあまり 論じられていない。直観的には、宗教性の把握の不充分さの度合だけ科学技術の機能的利用へ没入していったという把握でよいとして、さらに次のような関心が 生じてきている。断片的項目として記すと、

・麻原氏の有名になった『生死を超える』には、多くの修行者たちが、より高次の精神的ステージ ヘ到達していく過程が記録されており、特に〈別の自分〉が身体を抜け出して飛翔していく際の視覚的ヴィジョンと各人の幻想性の質の関連に注目した。オウム の科学者たちは、これをコンピュターで解析し、総合し、信仰へ応用したのであろうか。おそらく、修行と技術開発を別個に進めたのではないか。分離と相互依 存の限界…。

・もし、統一的に把握する視点があれば、例えば、膨大な情報量と一定の鋭いセンスでオウム論をおこなっている立花隆のイン ターネット論(「物理的空間」と「情報空間」の分岐が始まっており、後者の加速度的拡大に遅れるな、という指摘)を、はるか以前に、ヒトの生存形態を肯定 したままの機械的二元論であると批判し得たであろうし、その位置からの現実への関わりは大きく異なってきたであろう。

・統一的に把握する 視点に到達するためには、本来は、前ページの4でのべたような、電子機器に依拠せずに全世界と対決してみる位置を潜ることが不可欠であった。かりに電子機 器を用いる場合も、前述の修行体験の基礎となる身体の中を貫流する幻想の管が瞑想やグルの指導(言葉ないし接触)によってどのように機能していくかを測定 する媒介として(ないし、測定し得ない場合は、機器自体の限界の測定方法へ変換しつつ)設定するならば、インターネット肯定論が、社会的身体における神経 細胞の拡大の肯定に過ぎず、身体の全器官の解放にとっては部分的な意味しかもち得ないことを、言葉以上の説得力で提起し得たはずである。

・ 極めて乱暴な(暴力的な?)いい方になるが、現段階のインターーネットの機能とオウムの修行方法には、大多数者の評価としては肯定と否定に分裂していると はいえ、共通の欠陥がある。それは、全生命体といわないまでも、ヒトの性別に対応する使用ないし解脱の回路を想定していないことである。このいい方で何か が一瞬に判るヒトに期待する。このレベルで、何かが一瞬に判ることこそ、双方の最終目的の核心にあるはずだ。

・過渡的な結論ではあるが、インターネット概念の解体と再構成の作業は、オウム概念の解体と再構成の作業と対応〜平行して展開していく場合に成果を得るのではないか。
     (p26-29 概念集・別冊2 〜ラセン情況論〜 〜1996・5〜 から) 

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