表現手段(過程)      

 私は外出している時には、筆記用具を殆ど持たず、腕時計 は証憶にない程まえにパンに変換してしまった。それらが〈ない〉状態の方が、表現のヴィジョンや時間の意識を、より鮮やかに生きることができるし、それら を持つことが許されない被拘束の状態に普段から慣れておいた方がいい、と理由づけをしながら。時刻は街の至るところで確認できる。歩いている時に何かを思 い付いてメモしたい場合には、だれでも使える筆記用具を備えつけてある場所…郵便局、銀行、駅の定期券売り場などへ行く。スーパー・マーケットで客の苦情 を書いて入れる投書箱の備品を使っていて従業員の注目を集めたこともある。これらの場所にある筆記用具は基本的にボールペンで、拘禁施設で使用を許可され るのは基本的にボールペンだけであることを思い出す。時計は決して使用を許可されないものの一つで、時間把握が人間の基本的な権利とは認められていないこ と、同時に本質的な武器になりうることを暗示している。

 街を歩ける状態にある時は、監獄の中にいる時に時刻を知りたくなったり、どうでもよくなったりするのと同じ度合で何かの感覚を把握してみようとしても、 そのような試みを忽ち溶解してしまう作用を獄外の日常性は与え続け、それは筆記用具を持たずに歩いても借りられる前記の例からも明らかである。しかし、獄 外にいても筆記用具の使用が困難な場合は多い。負傷や障害のために筆記用具を持てない場合は勿論、私の経験では、急いでいる時に、マッチの軸の燃えかすを 道端にある灰皿から取り出し、近くのゴミ箱の古新聞の余白の部分を切り取って簡単な伝言を書き、電話のない不在の知人の部屋のドアの下に入れたり、忍者風 に小石を並べておいたこともある。

 その他、類似の例は多いが、既成の水準の表現手段では白分の表現内容は展開不可能であり、展開可能な表現手段はどこにも〈ない〉場合に拡大して考えてみ ると、全く意外なものが新しい表現手段かつ表現内容自体として現われ、情況の困難さを極点において転倒していくことがある。ボールペンや紙片が筆記用具と してでなく法廷を飛翔することによって、卵やヒマワリの種や酒パックの場合と同様に、表現主体の意図のみならず物自体の既成の意味を飛翔させたのは記憶に 新しい。

 ここでのべていることや〈落書き〉の項目に関連する一つの光景を補充しておく。一九六九年夏にバリケードが解除された後に初めて多数の教職員が大学構内 の掃除のために出てきて広場に集合したことがあった。その時、ヘルメットや鉄パイプや火炎ビンや(それぞれ表現手段でもある。)に関わりをもったことのな い学生の一人が何もいわずに、いきなり消火器を持ち出して、激しい噴射を教職員らに浴びせかけ始めた。相手は不思議なほどに身動き一つせず、次々に全身を 泡で包まれていき、構外で待機している警察官も手出しできないほどの、厳粛な光景であった。この厳粛さに対する感受性が一九六九年を表現したり考えたりし うる原則の一つであること及び、この原則が不要になる情況は、まだ当分こないであろうことをあえて記したい。


 この項目は、表現過程論の一環として構想しており、〈表現過程〉というタイトルでもよい。これまで私は、表現のテーマを考える場合、表現された結果の、 複製〜商品化可能な水準のみならず、表現の成立〜運動過程自体を結果と対等の比重で把握すべきであるという原則を、機会ある度にのべてきた。この視点か ら、表現の結果に匹敵する重要な意味を帯びているにもかかわらず、放置すれば決して目にふれることのない表現手段の現在例を指摘しておく。

 一つは、原稿の校正、私のいう〈表現の清掃〉は、〈資本制的自然の清掃〉としての仮装組織論的労働や、〈国家的幻想の清掃〉としての仮装被告団的闘争と 共に、私の重要な生活手段かつ内容であるが、校正した文字や記号が私の表現として印刷されることはないし、私が関わったことも判らない。労働や闘争につい ても位相差はあるが同じである。

 もう一つは、法廷で双方の当事者が申請しようとしまいと〈私〉の証言が不可欠であると傍聴席前方の柵を占拠して、発言禁止や拘束の可能性を怖れずに〈証 言〉したことにより、裁判官も私を証人として採用せざるを得なくなったけれども、その後の証言は記録されても先程の〈証言〉は裁判所の記録には残らない。 (希望者へ〈記録〉の開示は可能)


註一.この文章を私は自分で購入したのではないワープロで打っているが、いま表現手段としてワープロを使用している全ての人に、監獄でもワープロを国家の 費用で設置し共同使用を認めよという声を上げてほしい。監獄での使用不可能性を意識して表現手段(時計ないし時間認識の方法を含む。)を使用することが、 言語を持たない存在を意識して表現内容を展開することと共に、私たちの表現(論)の前提である。

 二.イエスは群衆に性的な規範を逸脱した女の処置について問われた時、黙って地面に指で何かを書き始め、何度も繰り返し問われた後で、「汝らのうち罪な きもの、まず石を投げよ。」と言葉を発し、また何かを書き続けたと伝えられているが、私には発言内容のみならず、指と地面という表現手段に関心がある。か れが何を書いたかは伝えられていないけれども、 〈 〉か、それに対応する記号ではなかったか…
 (『概念集・2』 p19-20)

        訂正


 時の楔通信第〈9〉号(八四年二月)の最後に、 〈訂正について〉という表現がある。内容を要約すると、

一.通信各号の最後に訂正リストを掲載しているが、文章の誤記、校正で見落としたミスプリントなどは、印刷終了後の配布段階で視えてきたり、補充したりす ることが多く、これは執筆〜印刷〜配布の全過程の一部にしか関わっていないことから生じる〈疎外〉に関連する。

ニ.表現の原論的ヴィジョンと交差させると、
(1)〈黒板〉〜〈壁〉への直接表現や話体で の言葉は、時間をおいて訂正することが困難ないし不可能であるという表現位相内部の存在論ともいうべき感触。
(2)証言記録では自分の発言であっても訂正は実質的に無視されることにも示される、権力が内部の記録(者)しか認めない構造。
(3)人間〜社会の行動軌跡〜様式の対象的〈訂正〉を可能にする組織論は何か、という問い。

三.通信の各表現や構成は完結〜確定したものではなく、今後すべての共闘者と再検討しつつ情況〜存在に突入させていくための素材を仮装しており、この方向 での〈訂正〉を切望している。

  前記の文章を(直後の訂正リストと共に)書いた時にも、いま自分は〈訂正〉概念を変換しうる場にきており、私の表現が、この世界に存在する限り、提起とし て飛翔し続けるであろう、と考えた。いまも、そう考えている。そして、さまざまの表現の主体が、文学に限らず、自らの表現をどのように訂正するかに注目し てきた。


 概念集の作業の過程で出会った先人の試みの一つにモンテーニュの『エセー』がある。
 (エセーは随想録と訳されることが多いが、essaiはフランス語の essayerの名詞形〈試み〉であり、ドイツ語で同義のブレヒトの論集 Versuche と共に吉本隆明の編集する『試行』を連想させる。)
  一五三三年に生まれたモンテーニュは、一五七二年から『エセー』を書き始め、一五八○年(a)に九四項目を、一五八八年(b)に改作した前記の九四項目と 新しい十三項目を刊行し、一五九二年(c)に死ぬまで訂正し続けた。かれは自分の訂正の原則は、抹消ではなく追加である、と文中でのべ、多くの研究者の研 究により、前記のa、b、c段階の印をつけられた文章の各部分が、時間経過にもかかわらず、安定したリズムで最終表現へ集積していくのを確認することがで きる。


 かれは、訂正に関するこの原則を持つ理由を、要約すれば次のようにのべている。
*1 作品を公表してしまった以上、読者は公表された 形態で読む権利を持ち、こ の権利は、訂正したいとい う作者の権利よりも大きい。
*2 公表後に変化した自分の思想が、公表段階より優 れているとは限らず、訂正を公表するとしても別の本でする方がよい。
*3 印刷技術上のミスを訂正するために読み返すくら いなら、同じ量の『エ セー』を新しく書きたい。(なお、かれは自分で原稿を書かずに、よく召使に口述筆記させた。)

  この発想から、貴族としての、または資質としてのおおらかさ、ないし限界を読み取るのは容易であるが、むしろ、全記述との関連で多くの示唆を引き出すこと ができる。現代に劣らない位の激動する情況から意志的に閉じ籠もり、文章を書いて公表するというだけの〈行動〉を選んだ時に、この唯一の〈行動〉にこめた 姿勢。激しい宗教的〜政治的対立や流血を長い年月にわたって目撃し、確実な信念はありえないかも知れないという〈確実な〉思想にたどりつくまでに耐えた空 虚の対象化。それらの比喩として、古典的な綴字法を指定したのに当時の流行形態で印刷されてしまうことへの不満をのべたのであろう。

 また、かれは、記述した内容ではなく、構成の順番については、かなりの変更を公表前にしており、各項目の展開の順序や範囲について苦心している私には大 いに参考になる。

 時代も方法も力量も、遥かに私と遠いことを踏まえて、幻のモンテーニュ(および前記の〈試み〉に関わる先行者)に、私の試みとしての概念集、とくに〈訂 正〉論を対置してみたい。五年前の表現を応用する形で補充しながら。

一. 執筆〜印刷〜配布の全過程に関わろうとすること、全ての人がそうしうる情況をつくろうとすること、その試みが極めて困難であるが不可能でないことまでは視 えてきた。訂正についても、具体的な作業を行う人の内的な意識を共有しつつ、この意識や労働対価の疎外形態の止揚をめざしている。

ニ.(1)〈黒板〉〜〈壁〉への直接表現や話 体の言葉も、それらが影響を及ぼした幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放してい く度合で、より高次の水準へ〈訂正〉しうる。
 (2)権力の表現所有〜訂正に関する構造は、基本的には権力構造の打倒〜解体によって〈訂正〉しうるが、権力が無視しえない、別の〈同一〉表現をつくり だし対置する作業が、拘束されている表現を固定化させないためにも必要である。
 (3)人間〜社会の行動軌跡〜様式の対象的〈訂正〉の組織論の萌芽は、前記(1)、(2)を具体化する際に、モンテーニュのとった〈空虚〉への対し方の 対極で〈 〉を媒介して出現しつつある。

三.この概念集、とくに2の〈訂正〉論は、全ての共闘者が考え、再構成していくための素材を仮装している。
 (『概念集・2』 p27-28)

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