反ユダヤ論の陥穽……
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ユダヤが立て る七つのシナリオ | |
太田竜の現在までの変化の軌跡に視点をしぼって論じる
が、それは、かれ以外の主張する反ユダヤ論から私は示唆ないし衝撃を受けていないからである。かれの主張する反ユダヤ論が資料や立場を既成の反ユダヤ論か
ら借りている場合も同様である。しかし、かれの主張は簡単に否定することはできないと、かれの数十年間の独創的な思想の軌跡への敬意から私は考える。かれ
の数冊の反ユダヤ論の著書から代表的な表現の断片を、このページ右に掲載するが、かれ以外の人が同じ主張をしても私は無視したであろう。従って、かれの主
張の内容ではなく、かれが、このような主張をするに至る変化や過程が示唆的ないし衝撃的であるという方が正確である。かれのいい方を転倒していえば、私
は、かれのためにも、かれのシナリオの枠組みの中に入ることを拒否する。 かれの主張する反ユダヤ論の独自性は、次のように要約しうるであろう。 (1)ユダヤ的な発想の発生は、人類が家畜制度を採用した 時期に交差している。 (2)ユダヤ的な発想は、自然を選民が支配〜利用する対象であるとみなすヨーロッパ文明の根幹を形成しており、原始共産制社会の発 想の対極にある。 (3)ユダヤ的な発想に反撃しうる唯一の拠点は、それに充分には汚染されていない日本の原住民以来、持続している伝統(ことば、食物、 科学、感覚を含む。)である。 これらの三点は、もし、かれ以外の反ユダヤ論者が主張すれば、その反ユダヤ論 者の論拠の再構成なしには論じ続けられないほどの重さをもっている。これらの主張の背後にある追求を、どの反ユダヤ論者も、かれほど徹底的におこなってい ないからである。一方、かれが今これらを主張するのは、かれの軌跡からの後退であり、矛盾でさえある。かれは氾濫する反ユダヤ論をこそ粉砕すべき位置にあ るはずではないのか? なぜ、このような事態になったのか…を考えると、次の点と無関係ではないであろう。 α‐自己の直観的結論に役立つとみなす表面的 経過をすべて自己の論証の材料とし、複数の経過に内在する対立や矛盾を平板化してしまう。(現在のかれはスターリンやヒトラーでさえも反ユダヤの戦士とし て評価しかねないほどの錯乱に至っている。) β‐ある民族や宗教の外包にのみ視点をしぼることにより、個々の存在の内包しうる一瞬が、集団的な思想や主 張の総体に桔抗し、止揚しうる関係にあることに無自覚である。 (無数の〈ユダヤ〉人を等質の存在として扱うことこそ家畜への手つきなのだ。) γ‐か れの発想には、歴史は陰謀や秘密文書などでは動かないという現実感覚が欠損している。文体も、原初的な魂をもつ人を筆写したり翻訳してみようという気にさ せるエロス性を殆ど失ってしまっている。(現在の文体の漢語的硬さは無残である。) かつて太田竜は、〈辺境 最深部へ退却せよ〉 (71年)に象徴される表現で、前記の錯誤を内在させつつではあるが、極めて独創的な提起をおこなった。その独創性を真に生かし始め るためにも、かれが前記の(1)、(2)、(3)の根拠へ再度退却することを切望する。 |
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家畜制度全廃/日帝の脆弱性 | |
しかし、
そのためには、かれは71年に自分が警告した事態(このページ右にその部分を掲載する。)が、正に自分についてあてはまりうるという関係に気付き、その原
因を把握しつつ超えていかねばならない。それは可能であろうか?かれが次の指摘を根底的に潜り直していく瞬間以降にのみ可能であり、それが不可能でも、私
たちがやっていく。 かつてのかれには、抑圧された奴隷的存在への共感、同じ位置へ降りて行こうとする真剣な態度があった。しかし現在のかれがユダヤは 全ての非ユダヤを家畜化しようと世界的な陰謀を巡らせている、と主張する時の態度は、非家畜の高みに立った批評でしかなく、それ故に、多くの体制的な反ユ ダヤ論の論拠や資料と安易に連帯してしまうのである。 また、かつてのアイヌ革命論および実践の段階においては、ことばによる情報の交換ではなく、一人で日本人=シャモ的な総体と闘う時 の敵・味方からの波動こそが情報の交換に相当する原則的形態であるという自覚があった。しかし、現在のかれが書き散らす文章には、この原則の正反対の解体 現象しかなく、私の不信を増幅させる要因になっている。 さらに、かつてのかれの「性の革命」論の幅が家畜の生殖支配論に収縮し、無味乾燥化しているという指摘をしなければならない。かつ てのかれの「性の革命」論は、もし、かれと共闘しうる異性による文明批判の視点〜感覚点を包括して展開され続けていれば、性や家畜解放論としてだけではな く、宇宙論を包括しうる質に飛躍し得たかも知れない。現在の反ユダヤ論の対極として…。 かれは、反ユダヤ論へ大胆な飛翔をしつつあると自認しているかも知れないが、もっと飛翔し続けるべきである。原点へ戻るまで…。あえて率直な断定を試み ると、かれは他の追随を許さない質と速度で情況をかけ抜けて最前線の戦士たちに多くの示唆を与えたが、その独創的な提起を実行する人々の時間の質を観測す る方法の欠損ゆえに、反ユダヤ論という罠へ 落下したのである。たえず、より先端的な変革のテーマを追跡しようとするかれにとっては、複雑な情況を一挙に 裁断しうるかに見える反ユダヤ論は、大きい魅力であったのかも知れない。しかし、私から見ると、かれが援用している、かれ以外の反ユダヤ論は、かれの数十 年間の思索が敵の指標として掲げてきた特徴をそれぞれに具えており、それぞれも矛盾〜敵対さえしているのである。これほどの逆倒があろうか?この意味で、 この項目の題名は、一般的な〈反ユダヤ論の陥穽〉という以上に、(太田竜にとっての)〈反ユダヤ論という陥穽〉という意味を帯びている。 しかし、太田竜にとっての陥穽と同様な陥穽を、別の様々の形態で準備しうる高次の名づけ難いシステムこそが、〈ユダヤという陥穽〉 でありうるかも知れない、という拡がりで、かれの問題を把握したい。場合によっては、かれ以上に〈ユダヤという陥穽〉と闘うためにも。また、そうしないと しても、私たちのそれぞれが困難なテーマとの格闘過程において一定の成果を上げた段階でこそ、その内包する空白という罠に落ちることがありうることに自覚 的でありたい。この自覚を個人の内省としてだけではなく、現実的な過程総体の渦の中で具体化していく方法を同時的に追求しつつ…。 その意味では、かれは今回も貴重な先駆的な提起をしたといってよいであろう。 |
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ユダヤの日本占領/日本原住民史序説 | |
補充的展開-すでに前記の表現においても総体の論述に内在させて提起しているが、(反)ユダヤ論を主張する時の危険を、少なくとも次の二点について指摘しておく。一つは、ユダヤ人は全てユダヤの世界支配のために行為しているとみなしてしまうことである。例えば、太田竜は、ハイネがマルクスと共に第1次共産主義イ ンターナショナル創立に関与した、という反ユダヤ論者の記述(このページ右に掲載)を肯定的に引用し、別の所でロスチャイルド系財閥の叔父ザロモン・ハイ ネの娘アマーリエやテレーゼに恋をしたハイネがユダヤの世界支配のために暗躍したと示唆しているが、ハイネは財産や環境の差により実らなかった恋ゆえに、 詩作を唯一の杖として生き始め、ドイツから追放された後も生涯的にロスチャイルド財閥的なものと闘ったのである。時間的にも、1856年に死去したハイネ が1864年の第1次共産主義インターナショナルの結成に関与したとは考えにくい。それは、現在の歴史家が、松下は58年12月の日本で第1次ブント(共 産主義者同盟)の結成に関与したとか、未来の歴史家が、松下は1990年代に宇宙革命評議会の結成を提起した、と判断する以上に非現実的である(松下につ いてはSF的視点からは当たっているといってもよいが)。また、マルクスがユダヤの世界支配のためにユダヤ系資本の援助を受けていたのであれば、貧窮と神 経症に悩まされ、子どもたちを餓死させつつ「資本論」を書く必要はなかったであろう。勿論、マルクスの理論が、その後、現在までかれの予測を超える世界支 配に利用されることがなかったとはいえない。大いにあったと考える方が正確であろう。しかし、利用する主体はユダヤというよりは、より巨大な名づけ難いシ ステムではないだろうか?それとこそ私(たち)は闘いたい。 もう一つは、前記の最後の部分に関連するが、困難な透視しがたい世界情況をユダヤ的陰謀のせいにしてしまう安易さである。21ペー ジ右に掲載した太田竜の危惧するユダヤのシナリオなるものは、困難な透視しがたい世界情況の表層的指標の羅列であって、到底一貫したプランの具体化とは考 えられない。とはいえ、太田竜が指摘する危機は、全く無根拠ではない、と私も考える。とくに地球の支配者層の異星人とのコンタクト・相互利用についてはマ スコミが報道しない(指導的地位にある一部の者にしか知らされていない)重大な事態が進行している可能性を意識のどこかにおいて情況を把握していることが 不可欠であろう。そして同時に、(反)ユダヤ論や異星人とのコンタクト・相互利用論が地球の支配者層による真実を隠すベールとして登場している可能性も想 定しておく方がよい。真実は常に簡潔である。〈一人でも、いや一つの生命体でも苦しんでいる限り、この世界は変革されなければならない…〉それゆえ、太田 竜の軌跡に則していえば、かれはユダヤ的な陰謀に対して日本民族の伝統!から反撃せよと主張せずに、少なくとも一時期は存在的な共闘を試みたアイヌのこと ば、この列島の超古代にありえたカタカムナ的発想により問題点を把握し直しつつ、この瞬間にも屠殺されつつある家畜の苦痛から、困難な透視しがたい情況の 根源へ(選挙への立候補などでなく)戻り、再出撃すべきなのである。その時のかれの表現にユダヤヘの言及があろうとなかろうと、私は本気で共闘する準備が ある。 |
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(p21-23 概念集・11 〜1994・12〜 から) |