松下昇~〈 〉闘争資料

2010-06-27

波(サインカーブ)が揺れながら語る

 かならず、すべてのものは、感覚にとらえる前に弯曲してしまうのだと思いこんで、やっと動きだすことが可能になり、動きはじめて以来、いつでも、どこでも、強調しようとした感覚が、逆にかすんでしまうのを知った、と波が揺れながら語る。

(松下昇 「六甲」第5章)

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安保闘争という大きな国民的運動の高揚後、どんな(政治的)行動への誘いにも反応できなくなっている自分がいる。思い〜情動〜行動といった一連の過程になめらかさが失われ大きな落差(弯曲)を指摘してからでないと行動できない。そして実際に運動しても例えば大きな声を出せば出すほど空洞感覚を生み出してしまう。そのような観察は「挫折の季節」に一般的なものだ。


波とは何か? サインカーブである。であると同時にその微分であるコサインカーブである。サインカーブが位置を示すのに対し、その微分は加速度つまり主体のせき立ての強度を表す。

sin(x) の微分cos(x)。 今がどん底であるとしよう。どん底=sin(-π/2) cos(-π/2)はゼロである。方向性を喪失しているがかってのようにマイナスのエネルギーに満ちているわけではない。どん底まで落ちきることによりわたしは老子的無に近づき、再生(回春)を遂げる。主体的意欲が高まると位置もいやいや付いてくる。主体的意欲が臨界に達してもなお上昇は止まらない。運動の高揚期に実は主体的意欲はゼロになってどんどん下がろうとしている。(このとき安保闘争においては樺美智子の死があった。その直後に動員数だけ最大だが無駄なデモがあった。(たぶん))

sin(x) の微分cos(x)というのは、高校で習うが、すぐにより難しい応用問題を解かせるので、日常生活に適用できるはずという話は教わらない。わたしたちが日常観察できるのは「位置」の方だが、主体において大事なのは「加速度(やる気)」の方で、この二つのものは日常生活においては分離して観察できない。そのせいでわたしたちはいつも誤る。


波というたった一つの言葉の背後に、こうした三角関数微分の逆理というシンプルな数学的真理が潜んでいる。


松下は高級難解なレトリックに淫しているだけのように思えるがそうではない。現実というものは常に微分の位相と通常の位相と二つの位相において存在している。それを見ずに生きてしまうことの方が弯曲しているのだ、実は。