松下昇~〈 〉闘争資料

2010-05-29

儒教と松下昇

学者という存在様式への疑問

朱子学は実行(修徳)と学問の両者を全うせんとするもの。陽明学は道徳の実行に偏する。古学派は「往々知的探求を主として道徳の実行を疎かにすることあるを免れざるなり」と井上哲次郎は「日本朱子学派之哲学」p8で言っている。*1

近代の(現代の)学者は見て評価する主体であることに自足している。論文を書くことが一生の仕事だと思っている。あるスタイルにのっとって文章を生産する(論文を書くこと)、それは困難な課題であるがためにそれが至上の一生の目的であると勘違いしてしまう。会社(業界)での業績を一生の至上の目的であると勘違いする愚婦愚夫と同じ存在様式であることに気づかない。まあ人間とはそうしたものだとも言えるが、主体のあり方に一切の疑問を抱くことなく、広義の哲学や社会変革(正義とは何か)みたいなことをも論じてしまうことである。

論じる客体と主体の関係が固定化され疑われない限り、生き方としては、社会変革と無縁である。これは言うまでもないことだ。

にも関わらず、言説は社会においてニーズがあり、学者は嬉々としてそれに応じつづける。


明徳について

明徳とは天より別れ来て、我が心となり、いかにも明かにして、一もよこしまなるこころなく、天道にかなふたるものを明徳といふなり。此の明徳を明かにみがきたてたる人を聖人といふなり。又人間と生まれ来てより後、人欲といふものあり。人欲さかんになれば明徳おとろえる。藤原惺窩「千代もとくさ」

posted at 07:47:09


執其中:尭(ぎょう)曰わく、咨(ああ)、爾(なんじ)舜(しゅん)よ、天の暦数は、爾(なんじ)の躬(み)に在り。允(まこと)にその中(ちゅう)を執れ。 『論語』の尭曰(ぎょうえつ)篇 http://bit.ly/dqTTPh

posted at 07:53:44

堯告舜曰 人心惟危 道心惟微 惟精惟一 實執其中 舜亦以是傳禹 堯 舜に告げて曰く 人心は惟(こ)れ危うく 道心は惟れ微(かすか)なり 惟れ精に惟れ一にして 實にその中を執れと 舜もまた是を以て禹に傳ふ http://bit.ly/cRwpwJ

posted at 07:55:22


藤原惺窩は言う。人間は道心(明徳)と人心を持つ。上智の人も下愚の人も。これを治めるゆえを知らないと、人心が主人になり道心が被官となりて天理ほろびるなり。人心惟危 道心惟微 惟精惟一 實執其中 「中」というあまりにもありきたりの言葉を理想として持ってくるのがクール。

posted at 08:12:02


「中」という理想。50%が理想であるとして、人心はのさばってくるという性質を持つ。だから常にそれを牽制しなければいけない。人心が価値であるとしてもそれだけではやっていけないので常に50%が最高獲得値。人心を抑圧するというと反動のようだがそうでもない。

posted at 08:12:34


「1971.9.7 Sさんと被告人松下がB103教室ドア付近で教職員から激しい身体的暴行を受けていた。」Sさんと被告人松下はいわゆる全共闘派。〈ところで、いま、虹がかかっているよ、といって通り過ぎるのは何ものか。〈 〉からはみだしていくものたちか?〉に、〈中〉を接続したい!

posted at 08:23:52

 AとBがお互いに存在をかけて争うとき、どちらに加担すべきか? 秩序維持という職務のためにそこに存在するものは有罪ではない、という秩序側の判断が、闘争側の敗北によって一般化しているようだが、それでよいのか?一般に人はよっぽどの動機がない限り、有罪といわれるかもしれない危険など犯さないわけで、われわれとしては秩序維持の反対側に立とうとする指向をもってこの問題に近づいていくのだが。

 自己の内なる良心に基準を求めていくことにわたしたちは反対してきた。判断する主体という形で「わたし」が切り詰められ主体化(近代化)された後に、良心という基準がやってくるからだ。

藤原惺窩の道心あるいは明徳はそうではない。状況のなかにあるわたしというものを状況と切り離さずにまず捉える。そしてそこにおいて、逸脱(鏡の曇り)といったものを否定して行くのだ。

例えば、17:00で締切りでそれ以後は不法占拠というルールがあったとしても、それを機械的に適用するのではない。そこで議論が行われているとすればあくまでその議論において「中」を求めることが一貫した課題である。そこから逸れることは許されない。


松下思想のポイントが、学者−学生という主体の存在様式への批判であったとするなら、儒教とかを参照することも、あながちばかばかしいことではない。

*1:古学派には注釈として(ただし仁斎派は除く)と付記しているが。