2010-05-02
■ 〈刊行委員会〉テーマについて、断片
a、〈 〉闘争の巨大な意味(これは身近にいたものなら、だれをも自然性のように訪れる)のもつ、〜対権力〜諸幻想領域〜生活基盤〜の総体のテーマのうち、自らが安全にかかわりうる場面の、文字に変換しうる方向にのみ〈とりついて〉いる。
b、かかわり方の時間性は、必ず過渡的であり、未来的な創出を決してなしえず、
c、テーマの設定は、きわめて部分的、かつ自らの被害意識(実は自らの低劣なイシキの反映)を軸にしたものであり
d、〈遠方〉の直接購読者の関心と保守性をあてこんでいるにすぎない。
〜86.10.25〜 μ*1
これはある人から(村尾)さんへの批判であるが、私への批判として読んでみる。
d、については松下関係のnet公開については、2、3人の方には注目してもらったこともあったのに、持続性に於いて弱く、現在は発信力の弱さのためほとんど(関係性としての)読者ゼロの状況になっている。通りすがりの読者が皆無とは言えないとしても、そのことはむしろ「やはり読むとは関係性を作ることだ」を真理だと再確認することにつながる。
c、野原は「自らの被害意識」といったものは持っていない。しかしそのために、私はやはりニーチェが批判したような「超越好み」といった思想を身につけているような気もする。あるいは文芸評論的比喩で対象との距離を確保してしまう振る舞い方。
a、巨大なテーマを巨大なまま現前させることが要請されるのであれば、それは不可能であるばかりだ。そうではなく、わたしたちが日常で出会う許せなさをプチ爆発させようとした時、まさにその時に松下に出会うべきなのだ、多分。
b、手書き文字のコピーは読みにくく最初「本来的な創出」と読んでいたのだが「未来的な創出」であるようだ。インテリの仕事は作品なり論文なりつまりはある完了を成し遂げることであるわけだが、そうではない「未来的な創出」とはどういうものか。言葉たらずであっても人の心を打ち、運動を巻き起こすこともありうるが。一見孤立していてもなお、「未来的な創出」はありうる。そしてオープンソース運動のように開かれた関係を構築していくことにより、実際に未来を作っていくことも可能だ。
*1:p108〈 〉闘争の原像・1より