松下昇~〈 〉闘争資料

2009-09-06

超越を孕んでいるのが当たり前である〈個〉

えーと、坂部恵の『ヨーロッパ精神史入門』というのはなかなか大胆な構成の本で面白い。

ライプニッツの個体把握の独自性は大変興味深いものであり今でも示唆を与えうるものだと坂部は説く。「実体形相の説」とかスコトゥスの「このもの性」とかスコラ哲学用語を理解しないと分からないのですが、それにめげず無理に引用してみると次のようです。

坂部が箇条書きにしたものを野原が無理にまとめています。

1.14世紀以降、スコラ哲学は唯名論と神秘主義に両極分解した(知的いとなみと宗教体験の両極分解といってもよい)。

2.個体をドゥンス・スコトゥスにならって(汲み尽くせないものではあれ)「形相」として把握することは、個的体験(宗教体験を含む)を語り得ない「質量」の位置に追いやることなく、明晰に語りうるものはあくまで語るようにつとめる主知主義的な姿勢に連なる。

3.こうした個体把握は、「天使」の位置にまで、スコトゥスを継いで、人間を昇格させることになり、ここにきわめて高い「個」の自覚が達成されることになる。

4.ライプニッツ流の個体把握では、そもそも個と普遍が分断されていないので、個と普遍のかね合いのありかたについて、さまざまな形の多元論的な思考が可能となる。

p105 『ヨーロッパ精神史入門』isbn:4000023888

松下昇の「〈私〉たちは、あなた方の直系の血族として、六甲の空間から、この時間の底へ降りてきた。〈私〉たちは、あなた方と同じく、存在しきれない苦しみにうめいている。(六甲 3章)」には明らかにダンテの影が射している。それだけではなくやはり、自己というものを超越と分離させないことを当然と考える中世的体質を松下は持っていたのではないか。中世的なスコラ哲学的なものはわたしたちに馴染がない。否定されるべきものではない(「しっかりしたところがある」*1)、という少数意見をたまたま読んだ。 それについて、上記のライプニッツについての注釈を、〈私〉を把握する松下の特殊な思考の枠組を照らし出す光、と捉えることもできるのではないか、と思ったので引用した。

しかしスコトゥスはこう反論します。個体を決定してるのは形でなくて存在の性質だ。種類を決定する性質や、まさにこれそのものだ!と特定させる性質がある(個物にはその種類を決定するクィッディタスに加え、その個物を特定するハェッケイタスがある)といった具合です。つまりただ一つの「存在させる」という働きによって、その性質が変わるだけで世界への現れ方もかわってくるという反論をしたわけでした。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa145530.html

スコトゥスにおいても非質量的・形相的なものが質量的なものより現実性・能動性に優れるという原理は継承される。そこから彼は「このもの性(haecceitas)」という個体性・単一性の形相がそれぞれの個体の内に、種形相よりもさらに現実的な規定としてあると考える。なぜなら個は「究極の現実」であり、もっとも現実性の高いものだから。

(坂口ふみ「信の構造」p257 isbn:9784000234450 C0014)

能動知性/受動知性

受動知性:ものごとを区別し判断する働き、目の働き

能動知性:光の働き*2

参考 http://d.hatena.ne.jp/rothko/20060816

生きた時代

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年? - 1308年11月8日)中世ヨーロッパの神学者・哲学者

ダンテ・アリギエリ(1265〜1321)

まったく同世代である。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日 - 1716年11月14日)

400年後。

クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - )

250年後

*1:同書p90

*2アリストテレスの『魂について』の有名な箇所、430aの10〜25行では、知性(ヌース)が光に喩えられている。「すべてを生み出すもの、それによってすべてが作られるものであるヌースは、ある意味で光のようである。光はなんらかの形で、色の存在の潜在態を現実態にするからだ」というのがその一節だ。http://www.medieviste.org/scr1/archives/000634.html