松下昇~〈 〉闘争資料

2008-11-30

2008年の松下

2008年の松下

2008.10.19 野原燐

ごぶさたしています。

ある切迫から、この手紙をお届けしたいと思います。これはある集会への案内です。

その集会では例えば次のようなテーマが論じられます。「時の楔通信(第〈0〉号 1978.11 から  第〈15〉号 1986.7 まで、8年間発行されたメディア)」を読む。

それだけでなく、この集まりが具体化するきっかけになった、金本浩一さんが発行された書簡集(1)〜(3)(特に3)についても語りたいです。

別の言葉で言うと「< >〜{ }闘争は、存在の根拠としての、言葉の本質を最も自在に解放するたたかいであり、言葉を支える根拠が、これまでにない世界史性の<遊び>へ突入する試み」と言われる その闘争について です。

日時は、2008.11・30(日曜)で  13:00から16:30

神戸学生青年センター 阪急六甲北側 歩いて5分 078-851-2760 です。

 今回、このような集まりを開こうとするきっかけはいくつかありますが、ひとつはやはり、村尾建吉氏による4冊にも及ぶ松下昇〈全〉表現集の刊行でしょう。「まだ本当には出会っていない「一九六八年」にむかってこちらから手を差し伸べていきたいし、まだ気づいていない多くの問題に出会うたびに、本書で報告し、問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかけるので、」と公開を宣言することから彼の今回の出版活動ははじまりました。村尾の公開性を、自主ゼミの原則との関連で問う私たちの質問に対して、「言葉を交わす気には毛頭なれ」ないなどとしか対応できず、それにもかかわらずその後も刊行を続けているようです。わたしたちが介入することを村尾(ら)はむしろ待っている、と思っています。

さて、小さな集まりをかってわたしたちは繰り返していたので、今回は再開始になります。

「本件に関わる中心的テーマは、ある行為を含む何物かを中断し得る根拠、そして再開しうる根拠は何か。なしくずし的回帰としてではなく情況的生命を真に復活し得る〈再開始〉の根拠の対象化、にあるといえる。」p3 通信<10>号  ある行為とは、やはり占拠〜バリケード化 といった行為が想定されていよう。しかし、そういった行為でなくてもよいのだ。行為の主体が個人ではないこと、それから行為を色づける情況性の存在、自己変革〜超越性という未知の次元への感受性といったものが、あらかじめあるのだ。松下はそれを言葉で説明したりすることなくとも暗示することによりそれを強化し影響力を行使しえた。冷静過ぎる説明だがそうも言えよう。「情況を作っていく」ベクトルを自己に受肉することが当為になる。

橋を、広場を、部屋を、かんたんに通りすぎるな。権力にも、寄生虫的な参加者にも視えない空間が存在するのだ。汝はなぜここにいるのか。もはや、ここから脱出することはできない。

間違ってはならない。(自己とは区別されたものとしての)情況を自己に受肉するのではないのだ。自己つまり仕事や金に囚われているところの自己はわたしにとって疎遠なものにすぎない。であるから、わたしにとってすでに世界は1/3くらい変わってしまっているのであり後は〈再開始〉を愉悦として/苦悩として、行っていけば良いのだ。   案内文がうまくかけませんでしたが、以上です。

(10.12UP)