松下昇~〈 〉闘争資料

2008-11-20

存在様式の変換と霊性

わたしたちは松下の「双方の存在様式の変換を同時におこなうことの自発的な相互確認、それを維持〜発展させる回路の共同創出」(松下昇「委託」概念集1 p24から)というフレーズの意味を求めてきた。松下の死後、彼の残したパンフやテキストを誰かに売るあるいは贈(あ)げることをどう捉えたら良いか?という問に対する答えとして発見したのが、上のフレーズだった。

さて、それにしても「存在様式の変換」とは何だろう?、と考えるときに、次のフーコーの文章は参考になるような気がする。松下と違って双方(二人)の存在様式といった問題意識はないが、ギリシャからデカルトに至る長い時代においては、存在変容をともなう探求というものが常識であったことを知ることができる。

主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性(スピリチュアリテ)」と呼ぶことができるように思われます。この場合、「霊性」と呼ばれるのは、探求、実践、および経験の総体であって、それは具体的には浄化、修練、放棄、視線の向き変え、生存の変容などさまざまなものであり得ます。それらは認識ではなく、主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価なのです。*1

真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなければならない。霊性はこう主張するのです。真理は主体の存在そのものを問題にするような代価を払ってはじめて与えられる。

(略)

主体の変形ないし立ち返り(コンヴェルシオン)なしに真理はあり得ない、・・・

この立ち返り(コンヴェルシオン)は、主体をその身分、その現在置かれている条件から引き離す運動(上昇)というかたちでなされうる・・・

この運動をエロス(愛)の運動と呼ぶことにしましょう。(p20 同上)

 わたしたちは「真理」を求めていたわけではないが、「双方の存在様式の変換を同時におこなうことの自発的な相互確認、それを維持〜発展させる回路の共同創出」はいくつもの場面で私たちにとって必須のものであると思われた、論理的には。

しかし一方で、「人間や社会の存在様式の変換」というものをどんなものとしてイメージしうるのか私はまったく分からず困惑していたことも事実なのだ。

フーコーが指摘するように、主体の変形ないし立ち返り(コンヴェルシオン)というものがかってありふれたものであったのならば、それを理解し実践していくことは私にも可能であろうと、思う。

*1:p19「主体の解釈学」isbn:4480790519